|
カテゴリ
以前の記事
2011年 07月
2009年 06月 2009年 04月 2008年 10月 2008年 05月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 検索
お気に入りブログ
ネームカード
最新のコメント
最新のトラックバック
ライフログ
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
2011年 07月 02日
東京に行きたい
新幹線に乗りたい それだけのために、1回に往復2万円近い旅費(自己負担)を払って就職活動をしていたことがある。東京の書店、1社に「企業説明会」「人事部訪問」「筆記試験」「1次面接」を受けに行った。全部、日帰り。結局最終面接の案内前に他社の内定が出て辞退することになり、多くの意味で徒労の多かった就職活動だったが、「でも新幹線乗れたし」と、あまり後悔することはなかった。きっとその頃は、就職活動期とはいえ余裕があったのだろう。 2回目の人事部訪問で新幹線を利用した際、こんなことがあった。5月中旬のことである。 名古屋駅から乗車し、席に座ってしばらく、僕はるるぶのガイドブックで地図を見ていた(訪問先は確か東京駅~銀座付近だったのでその辺を見ていたと思う)。 すると、隣の席にいた、50代過ぎの女性が話しかけてきた。「東京へは旅行ですか?」 いや、就職活動で、と、瑠璃カケス。あと二言三言で会話も途切れるのかと思ったが、女性はズンズン話しかけてきた。なんだこのオバサン。身なりはキチンとしていて、参観日に来る時のうちの母ちゃんみたいな格好。どちらかというとザマス系だが、嫌味な感じは、あまりしなかった。ただ、自分は神戸からやってきた、息子は日産自動車にいる、などなど、それ聞いてどうしたらいいのさと思う話を続けられた。 「ところで今日の新聞読みました?」と唐突に聞かれ、「??」となっていると、朝日だか日経だかの真ん中ら辺の記事を出して見せてくれた(仮に新聞を読んでいたとしても絶対読み飛ばしているページだ)。内容は第2次世界大戦後のドイツの4カ国分割統治について。チャーチルとかドゴールの話が出た。何か質問されて、全然分からなかったので「勢いだからじゃないですか(適当)」と答えたら「違う違うそんなものじゃないんですよ」と全面的に否定の上、持論を展開された。俺何やってんだろう・・・。 豊橋ぐらいから、ずーっとこの調子で話しかけられ、熱海ぐらいを通過したところで「ところでこんな本読んでるんです」と、A5サイズの本を出してきた。タイトルは「知の技法」(東京大学出版会)。東大教養学部の演習テキストなのだが、当時一般書籍としても話題になっていた本(僕は知らなかった)だった。女性はこの本についても、また詳しく説明しはじめた。 この押しの強さ、確固たる自信、妙なインテリ・・・学者なのかどっかの会社のえらいさんなのかただの市民活動家なのか。東京に近づいた頃になって「私、最近退職して、今日挨拶しに行くんですよ」と教えてくれた。また出してくれた資料を見ると、外国(ドイツかスペイン)の在日商工会議所だった。よく分からないけど、すごいなと思った。本当によく分からないけど。 東京駅に着き、女性と僕は別れの挨拶をした。握手をしながら「就職活動がうまくいくよう、健闘を祈ります」と言われた。 結局この間、お互い名前も名乗らず、また連絡しますという話もなく、勿論これっきりの出会いだった。会社訪問前にかなり疲れてしまったが、今思えばアレで緊張もどこかに飛んでいったような気がする。 毎回、あんな人の相手してたら「いやよく分からないんで」と寝たふりを決め込んでいたはずだが、それこそこんな出来事はこれっきりだった。なんの準備もなく相手されたからこちらも面食らったが、心構えさえあったら、色々聞いていたかもしれない。堅い話だけじゃなくて、音楽や外国の話など(そして今だったら熟女に関するFAQをギリギリまで聞くかもしれない。オバサン大好き)。 先述の「知の技法」は、訪問の帰りに購入して、10ページぐらい頑張って読んだ。語るには何もかもが不足している。もう少しあの女性の話を聞いていればよかったかもしれない。 2011年 07月 02日
大学に通うのが非常に苦痛だった頃がある。
勉強が嫌だ、通学に時間がかかる(あとどこの学校も同じだと思うが坂が多い。辛い)、という理由もあるが、それに加えて困ったことがある。 教科書が異様に重いのだ。 高校ぐらいまでの教科書はカバーもペラペラだし、ページ数も知れている。ところが、大学で使うのは教科書というより、いわゆる専門書が多い。ハードカバーで、4cm近い厚みの本を、たとえば1日に3コマ分ぐらい授業があると、それを持っていくだけで手がだるくなる。 さらに、クラスがはっきり分かれていて、自分の机があった中学高校と違って、常に教室移動を強いられる大学は、教科書をどこかに置いておくことが原則不可能だった。だから毎回持ち歩くしかない。 そんなわけで、カバンの中は常にパンパン。リュックタイプにすれば多少楽になるが、満員の地下鉄では邪魔なので良し悪しだった。 カバンに収まらないし、岩みたいに膨れ上がってかっこ悪い。そんな悩みをスマートに解決する道具が、あった。これだ。 ![]() ブックバンド。教科書を布ベルトみたいなので十字に縛って持ち歩く。教科書にそのまま巻きつけるので、それを持っているだけで、「大学生だ」「勉強してるっぽい」「なんかかっこいい」「コンパとかすんのかな」などと思われるのかどうか。とにかく、このブックバンドを使用する学生は多かった。 僕もスマートさんになりたくて、緑色のブックバンドを持っていた。しかし・・・どうしても十字に縛ることができなかった。不恰好になって本がこぼれそうになった。しかも、カバンの中がすっきりしても、自分が持つ教科書の総重量が変わるわけではないし、手は塞がるし、雨の時は濡れてしまうから意味が無いし、で、機能性は非常に低かった。無理に2回ぐらい使って、すぐやめた。 しかし、カバンがふくれる悩みは、教科書を持っていくのをやめたり、そもそも授業に出なくなったりで、根本的な解決を得たのだ。何か本末転倒的な感じもするが。ていうかあんな分厚い本3,000円前後するのがとっても勿体無い気がする。大学の売店にズラッと並んでいたが、大して使わないのに買わされて、詐欺じゃないのかと思った。 iPadとかAmazonのキンドルみたいな端末が安く買える時代になったら、そんな心配も軽くなるんだろうな。iPadをブックバンドで持ち歩く天才が出てくるかも。 2011年 07月 02日
学校の図書室(以下、図書館)にもいろいろ思い出があるが、そのうち借りた本の話をしたいと思う。
高校に入ってまだ数ヶ月経過した位でも、結構図書館は利用していた。小学校の図書館と広さは変わらなかったが、棚の構成としては、絵本を含めた文学よりも、より実学的な本の比重が大きかった。専門書ではなく、中公新書とかブルーバックス、岩波ブックレットなど、わりと入りやすい教養モノが目立っていた。 その中に、平凡社か新潮社のカラー図説モノで、フランス革命についての本があった。 まだ授業で世界史は受けておらず、せいぜい現代社会で人権の歴史をやっていた頃かもしれないが、どうしてこの本を手に取ったのかは覚えていない。しかし、偶然ながらその中身の過激な内容に驚いた。 そこには、革命前の王族貴族の連中が放蕩に明け暮れる絵画が掲載されていた。日本の春画みたいなグロテスクなものではなく、下手に品があって、しかし「これ絶対入ってるよね!!」という絵が並んでいた。もっともその辺は最初の章に数ページ載っていただけだが、一応芸術品だし変に黒塗りもできないしで、アレとかソレとかが堂々と出ていた。モロだし。 一方高校生になったのに、相変わらず手持ちのエロ本はわずかで(みんな中途半端)刺激を求めていた僕には、このフランス革命の本がまさかの「オカズ度」の高い本だった。 しかも、裏表紙に挟まれている「図書貸出カード」を見ると、貸出履歴の中に、同じクラスの女子の名前があるではないか。「これは・・・あの子もこの絵をみたのかなハァハァ」・・・まあ正直言って同じクラスとはいえ良く知らない子だったのでその辺が残念だったが、プラスアルファ効果は間違いなかった。 ところが、これだけ盛り上げておいて何だが、その後僕がそのフランス革命の本を借りた覚えが、ないのだ。借りたかもしれないし、そうでもないような気がするし。躊躇したのは「俺様がこれを借りると、次に見たやつが『うわっこいつ借りてるよ!!』って思われたらどうしよう」という気持ちがあったのは、事実。 今さら何を言うか、と思われるだろうが、今思い出した、この本はもともと僕が見つけたのではなく、他の男連中が「これ見てみろよ、すっげえヤラシイ絵がある」と教えてくれたのだ。 そうなのだ、結局みんな発想が同じだから、そこから一抜けして借りてに持ち帰ることは、そんな簡単なことではなかったのだ。全く説明になっていないのかもしかして。 その後3年間、僕は引き続き図書館でエロ探しを・・・するわけもなく、普通に本を探し、棚から本を抜き、借りていった。 あの情熱は、今も消えたわけじゃないとはいっても、借りるか否かなどと苦悩する時代は、きっと来ないだろう。こんな些細なことでも、ちょっと衰えを感じずにはいられないのだ。 2009年 06月 07日
4月に一度ログを書きましたが、ずっとこのままというわけにもいかないと思いましたので、一旦このブログは終了したいと思います。
なお、決定しているわけではありませんが、ここで書いてきたような学校時代の思い出などを綴る機会は、近々新たに開設するブログに場を譲ります。 ホームページからだと5年、ブログとしては4年半、長い間、ご覧戴き有難うございました。しばらくはこのまま残します(いきなり完全閉鎖するかしれません、ご了承ください)。 2009年6月 my sweet school days 管理人 瑠璃カケス 2009年 04月 19日
大学のオケ(オーケストラ、管弦楽団)に入ろうと意を決し、説明会にも行った。練習見学にも行った。アンケートには「バイオリン希望」と書いた。
そして、入部説明会にも行った。この時点でもう殆ど気持ちを固めている・・・つもりだった。だったのだが。 入部希望の同志に馴染めない。 まずは、その圧倒的な女子学生シェア。女だらけの環境など、高校のときのウタゴエ部で慣れているはずだったが、あのウタゴエ部が良くも悪くも「馴れ馴れしい」感じがあったのと対極的で、お互いに話をしようという気が全く起きない。加えて、高校までは田舎くさい感じが親和性を促進していたのに対し、この女子群はなんというかお嬢様系で、なにか主従の関係すら漂うのである。お嬢様と書いたが美人が多いという意味では決して無い。 男子はというと、今の記憶であるが弦楽系では私を含めて3人ぐらいしかいなかったようだ。やや大人しい雰囲気ではあったが普通には話せたと思うので彼らが嫌だ、ということはなかった。しかしいわゆる「明るいバカ」も皆無で、息が詰まる感じがした。 ともあれ、とりあえず体験入部となり、練習ルームで、はじめてバイオリンを持たせてもらった。肩の凝りそうなポーズで弓を弾いてみる。油の切れたドアが開く時のような、情けない音しかでない。それは仕方が無いかな、と思った。 それよりも、この体験入部の際、4年生の先輩男女2人(後で分かったが団長とコンサートマスターだった)が、新歓コンパの話をしていたが、冗談ではあるだろうが「潰してやる」と言ってて、たったそれだけなのに私は完全に怖気づいてしまったのだ。今でこそ酒大好きな瑠璃カケスも、さすがに18歳当時は大酒も飲めず、無茶な酒は徹底的に回避したい気持ちでいっぱいだった。「オケにいたら、潰されるかもしれない・・・」誰に言うとも無く、そのごの練習でも一人でビビっていた。 その後、はじめてオケの合同練習を見学した。顧問の先生がタクトを振るって、6月の定期演奏会で演奏されるであろう楽曲をやっていた。 この時間が異様に長かった。まず、「このオーケストラは素人から見てもとてつもなく下手だ」ということに改めて気づかされた。原因は金管楽器系。実際、先生に何度も何度も止められて、豆腐屋のラッパでも間違えないフレーズを屁のようにすかしていた。弦楽器のほうは良し悪しが分からなかったが、そんなことよりも「チームとしてやっていけるのか」余計に不安に思った。 時間の経過が遅くてだるかった練習も終わりとなって、ヤレヤレと思っていたところで、先生が「今度は新入団員の歓迎会ですね、楽しみにしています」と言ってたのでまた思い出した。そうだ酒から逃げないと・・・この日1日で、もう、オケに入部する気は無くなった。 日が経たないまま、結局私は入る気が無かった筈の男ウタゴエ部に正式入部することになった。オール男で1年生部員が全員同じ学部という要素は、デカかったのだ。高校までの合唱経験もあって、入部は非常にスムーズにいった。男部も実際はそうとうキテる感じの先輩が多かったが、オケの上から目線的な雰囲気はないだけ、ストレスフリーだった。 一方、オケの方は部室へ赴き、団長に入部取り消しを願い出た。即時OKが出たわけではなかったが結果は当方の申出を尊重して受理してもらった。ここまで書かなかったが、オケには、高校のウタゴエ部出身の先輩がいて(4年生、ビオラ所属、高校のウタゴエ部はソプラノ所属)こちらの慰留が強かった。私としても、その先輩を頼りにいろいろ話を聞いてもらっていたし、申し訳ないとは思っていた。その他にも、わずかながら残ってほしいと言ってくれる先輩もいて、勝手ながら「ああ、中には血の通った人もいるんだな」などと思った。 そういうわけで、管楽器→合唱→弦楽器の音楽三段跳びプランは短命に終わった。とくべつ合唱が好きというわけでもなかったのにまた続けてしまったが、結局、音楽がどうとかというよりも「仲間(友達)がほしかった」という気持ちが強くて、新たなチャレンジを拒んでしまったことになる。 入学式でヘンデルの「ハレルヤ」を演奏してたオケは、4年後の卒業式典でも同じ「ハレルヤ」を演奏していたが、入学時とは比べ物にならないほど滅茶苦茶下手糞になっていた。定期演奏会でも誰も知らないマイナーな作曲家の楽曲を引っぱり出してきたり、先述のコンサートマスターが演奏会当日になって急遽変更になったりと、迷走を極めた。 それでもお構い無しにそのまま入部し、バイオリンでドレミを奏でることができていれば後悔することはなかっただろうか。今になっては、もう想像することもできないでいる。 2009年 04月 03日
今から17年前の1992年(平成4年)の4月、私、瑠璃カケスは大学生となった。
大学時代なんてごく最近のことだった、などと思っているうちに、とんでもなく遠い過去になってしまっていた。なんせバブルの頃だ。あの頃はインターネットもケータイもなく(ポケベルも入学当初は誰も持っていなかった)、緑色の公衆電話でテレホンカード使って電話するのが当たり前という時代だった。今回は電話とかテレホンカードの話はしない。前やったような気もするし。 ところで、大学の春、といえば、やりすぎじゃないかとも思う「サークルの勧誘」である。 唐突ではあるが、今回はサークルのことを書こうと思う。 * 中学で吹奏楽部、高校で合唱部(このブログではウタゴエ部と呼んでいた)として、わりと音楽に親しんできた瑠璃カケスであるが、大学に入ってもサークル等でその音楽を続けるかどうか、やや迷いはあった。ゴルフ部なんかも考えていた。あれはなんだったんだろう。 一方で、いくつかのサークルで勧誘を受けた。「飯をおごるから話を聞いてほしい」という人が結構いて、実際タダ飯を食った(学生食堂のランチである。最初から不味かった)。その後勧誘の電話もいくつかあったが、ヨット部とか絶対入らないところからだった。何で名前書いたんだろ。 どちらにしろ、サークルを通してでもいいから、友達を作りたかった。もう孤独で孤独で、キャンパスの通路がサークル勧誘のみならず春の賑わいが際立つほど、居場所の無さを憂えた。迷ってる余裕はなかった。 実は、入学式直後に勧誘を受けたのは男声合唱のサークルだった。最初は、「あ、まあいいか男だけのウタゴエでも」と思い、いろいろ考えたうえで、とりあえず練習を見学した・・・が、正直とても地味で(練習場所の教室も暗かった)、先輩とかもヤバそうで、これを4年間続けるのは・・・できれば止めとこう、そう思った。 吹奏楽で管楽器、合唱で声楽、と来ていたので、本命は弦楽器、つまりオーケストラだった。管弦楽団。高校まではまず御目にかかれない、ある意味大学という広い世界の象徴のように、オケのことを考えていた僕は、自分の音楽的ステップアップも考えて、勧誘を受けていないオケの部室のドアを叩いた。入学から10日程度経った頃のことである。(続く) 2008年 10月 01日
「ここに書くのも久しぶり」が恒例だ、なんていう間に、世間では発足したばかりの内閣の一大臣が在任期間5日という合宿並みの速さで辞任する騒ぎが起きた。「ニッキョウソは日本のガンだ」など、ニッキョウソを徹底批判する発言を続け、辞任した後もその発言、姿勢を撤回しようとしない。肯定的に言えば「貫いている」。インターネット上では彼を擁護する意見も少なからず見受けられる。個人的にはその意見の是非云々より「別にこんな時に言わなくても・・・」という気がするが、どうだろう。
さて、槍玉に上がっているニッキョウソ。日本の教育をダメにしたとまで言われるこの集団・・・なんだそうだが、実は30ウン年生きてきて、ニッキョウソがどういうモノなのか、実はよく知らない。知らないし知ろうともしなかった。 イメージとしては「赤い思想を持ったセンセイ達の集まり」「もう古い人」「あんまりセンセイとしての仕事をしない」というところか。数年前だが本の配達の仕事をしていた瑠璃カケスはニッキョウソのアジトにも出向いていたことがあった。古汚い建物の2階で、垢抜けない感じの男女2人が暇そうにしてた。金払いは今ひとつよくなかった。社民党のポスターが貼ってあった。 * 昔は、ニッキョウソのセンセイは結構いた、らしい。しかし私瑠璃カケスが知っているニッキョウソのセンセイは、2人。うち1人は、よく覚えている。今から20年も前、中学1・2年、隣のクラスの担任だったミシマ先生だ。 体育の先生だった。特別授業にならない授業をしていたわけでもなく、普通にバレーもサッカーも陸上もやっていた。クラスも異色という感じはなく、言われなければニッキョウソのセンセイだなんて分からなかった。ただ、体育にしては楽な授業だった。瑠璃カケスは運動音痴なので体育が嫌いだったがミシマ先生はわりかし好きだった。 中学の養護教諭で校長よりも威張っていたトラバアという嫌なやつがいたが、ミシマ先生はそのトラバアとも果敢に口論していた。クソトラバアに立ち向かった先生なんてミシマ先生ぐらいじゃないだろうか。偶然にもミシマ先生とトラバアは同じ年度で学校を去ることになる。トラバアはもう死んでるかもしれない。 2年生の時、春の学年合宿の際ダンスを取り仕切ったのがミシマ先生だったが、その時もちこんだYMOのライディーンは今でも忘れられない。ダンスでライディーンとくれば竹の子族だろう、と想起される方は相当中年だと思うが、まさにその通りで、ミシマ先生は中学生の我々に竹の子族ダンスを教え込んだ。他の先生方は反対しなかったのだろうか・・・今思えば、その辺がミシマ先生のニッキョウソ的な片鱗をうかがわせる部分だったのかもしれない。 うちの担任だったヤン先生が、ミシマ先生はじめ同学年の先生たちとカラオケに行った時のことを「ミシマ先生は・・・上手いとは言えんが、元気だけはあるんだよな」と話していた。 そのミシマ先生、離任式の際、挨拶もほどほどに「上手いとは言えない元気だけある」姿で歌い始めた。あれは歌ではなかった。遠吠えするサルのようだった。もちろん、何を歌っているか分からない。 音程も無茶苦茶な、ミシマ先生の歌う姿に・・・斜めから見ていた私は、涙をこらえるのに必死だった。もうちょっと上手だったら、そんな寂寥感を抱く事もなかっただろう。 在校中、車の追突事故に遭い負傷したミシマ先生だったが、今も元気にしているだろうか。もし今でも教職を続けられているとしたら、やはりまだニッキョウソに籍を置いているのだろうか。 * 便利な世の中だから、ニッキョウソのことを知ろうと思えば簡単にキーワードを拾えるだろう。だけど先述のとおり特に知りたいとも思えないし、ミシマ先生のことを思い出すと、なんだか、あんまり悪い方向に想像したくない、というのもある。 世の中に疎まれるのではなく「称えられる」センセイが、もっと増えてほしい。そうなれば、子供たちの未来も自ずと開けるんじゃないかなあ。 2008年 05月 18日
3年ぶりに高校の卒業アルバムを開いた。
![]() 1992年卒業だから、このログを書いている時点では既に16年の年月が経過している。16つったら俺ら卒業した時に生まれた連中がモロ高校生してるわけだ。そう考えるとこうやってアルバム見て当時を思い出すのも隔世の感がある。あの辺にオッサンオバハン言われても、言い返せないんだなあ。 さて、アルバムである。教職員の教科別写真に続いて、高校時代のイベント(文化祭、体育祭、修学旅行)、各クラスごとの見開き特集、そして全員の名前付き写真。小学校や中学校のと比べて写真の印刷具合がいい。画像加工してあるんじゃないかな、というぐらい見栄えよく映っている(人が多い。リアルに再現されてるのもままにいる)。 卒業アルバムを見るときは、勿論当時を懐かしむためでもある。ユーミンの「卒業写真」的世界だ。悲しいことが無くても表紙を開きたくなる。そんな時があってもいいじゃないか。 しかし、これは特に男連中の暗黙の了解というか、我々は常に清い心を持って写真の向こうのみんなに会うわけではない。卒業アルバムも、時にエロ本と同じになるのだ。 だいたい考えてほしい、高校の3年間、身近に女子がいて、そんでブラ透けとかパンチラとかに遭遇しないわけがない(男子校出身の諸君、スマン)。デジカメとか持ってないくせに、記憶媒体は僕らの脳内にあって意外に精巧に動いている。家に帰って勉強もせずに今日のエッチなハイライトを浮かべてズボンを下ろす。今日と書いたが、記憶媒体なのだから先週だろうが先月だろうが2年前だろうがすぐに引き出しを開けて準備ができる。そんなもんなんだ男子というのは。 そんな思い出がギュギュギュウッッッッピュッと詰まったアルバム。なんと胸ポチが見えたあの子の写真が手元に!という売り文句をつけたいものだ。女の子もマヌケなやつはしょっちゅうスカートが無防備になるから、同じクラスだった男子のシンクロ率は高い。案外アルバム開いて同じ子にお世話になるものだろう。違うかな。 漫画家の喜国雅彦が自著の4コマで「俺、アルバムの写真見ながら毎日1人ずつオカズに使って全員斬りするんだ」というネタを披露していたが、オオゲサとはいえチャレンジャーは必ずいると確信している。ちなみに本作では途中ブスでつまづいて挫折していた。どうしても抜けないとか。閑話休題。 個人写真のみならず、イベントフォトでもなかなかの具材があったりする。体育祭とか。今のようなハーパンではなかった時代だけに、ケツも転がっているものだ。アルバム製作の写真屋はそんとき一杯ネタ撮ったんだろうな畜生と思わざるを得ない・・・が、我々のアルバムの体育祭は正直今ひとつだった。一つ上の先輩のアルバムなんか、ケツ大集合だったのに。自粛がかかったんだろうか・・・。 そんなわけで、懐かしむというより、「卒業アルバムもらったら即使用」という、煩悩のかたまりには絶好の餌場となってしまうのだ、アルバムなんて。さすがに高校を出て大学だの社会に移れば童貞も捨てられて、記憶装置も役に立たなくなって、アルバムを穿った目で見なくなるようになるかもしれないが。俺も大人の男になったな ふ。と思っちゃうかもしれないが、ハタチ過ぎても女とよろしくやっててもオナニーやめるわけではないのだから、大して変わらない。 「あの頃の生き方を あなたは忘れないで」ってユーミンも歌ってる。男はあの頃を忘れないが、女子は早々に蝶となり羽ばたき、青春の一ページに閉じ込めて忘れてしまうであろう。しかし、三十路を越えればみんな固太りして劣化の激しい連中になるのだから、今こそ純粋にアルバムを懐かしみたいものだ。すげえ強引。 次回はもうちょっと叙情的な内容でアルバムに迫りたい。続く。 2008年 02月 23日
現在、通勤通学などで電車を利用されている方は多くいらっしゃると思う。私瑠璃カケスは通学は電車で、通勤時は殆ど車を利用していた。
通学時の4年間は近郊型の横長イス電車で、できるだけラッシュを避けて乗っていた。 ただ座りたいが為。途中の駅でえらい勢い(ローカル註:高蔵寺・春日井・勝川)で車内もきつくなり、サラリーマン諸君が狭そうにつり革掴まっている下で悠々と座席で居眠りする学生の俺様。腹立たしい様に見えたであろう。 * 瑠璃カケスの自宅から、最寄の駅まで行くにはバスで20分以上はかかった。 バスに乗れるだけでも喜んでいたぐらいなのに、さらに電車を使うことが少ない家だったので、電車に乗れると聞いた時は前の日からワクワクものだった。いつの時代の小僧だ、という気もするが多分本当である。 ![]() 私が生まれたすぐの頃('70年前半)は蒸気機関車が走っていたらしいのだが、程なく表舞台から降りたため乗ることはなかった。 しかし、日本の鉄道列車の主力は長岐に渡って、機関車、いわゆる汽車であった。汽車が消えたあとも童話や童謡など子供に身近なモノにも「汽車」という言葉が並んでいた。そのためか、親や祖父母は「汽車で行くか」という言葉をよく使っていた。 だが、小さい頃の私には、汽車がなくなったという事実は理解できず、「えー汽車にのれるのー」と、見事なぬか喜びをしたものだ。一度だけではなく二度三度。 ![]() それから、寝台急行の「ブルートレイン」、あれも最初は「青色の電車ならすべてブルートレインだ」と信じていたこともあった。 なので、 ![]() 特急電車など見たときは衝撃的だったし、新幹線に至っては10年に一度しか乗れないと思っていた。 大人になって、新幹線は乗る機会も増えたがそれでも夢列車だと思っている。地方を走る特急などの方も、あまり乗ることはない。ごく稀に乗車すると、いつも普通電車で通っている路線を早々と駆け車窓がどんどん流れていく様に、戸惑いを感じる時もある。 ここしばらく鉄道と縁遠い場所で暮らしてきた私にも、また切符を買って電車に乗り込む時がやってきそうだ。 ・・・でも最近ICカードとかケータイでも電車乗れるらしいんだよなあ。信じられん。 2008年 01月 04日
2008年(平成20年)1月4日。瑠璃カケスは34回目の誕生日を迎えた。
以上。 ・・・自分で書いてても何か虚しいものはある。上手な年のとり方とか全然考えていなかった。そういうライフプランニング的な愚痴は、やめておこう。 それよりも、誕生日である1月4日。 時は学校は冬休み期間なおかつ正月明け。言ってみれば最悪である。ケーキは無い。誕生日プレゼントはお年玉で誤魔化される(逆に「内祝いだ金くれ」などと家族に言われる始末)。男だからいいんだけど同級生の誰も遊びに来てくれない。 あるとすれば、4日に、名古屋の母実家に遊びに行く(毎年必ずではないが、だいたい4日)のが楽しみだったが、初期の頃はついでにカニ料理専門店(かに道楽・かに本家)にも寄っていた。 瑠璃カケスはカニが大嫌い(身体が受け付けない)なのである。 そういう自分が食えないことを知っててわざわざこの俺様の誕生日に行くこと自体、家族全員頭がおかしいんじゃないか、と今でも思っている。店に行っても瓶のオレンジジュース飲んで生簀でウヨウヨ彷徨うカニの姿を見てオワリ。カニって死ぬほど臭いから腹が立つ。 6月とか2月とか、あんまりイベント(具体的には祝日)の少ない月に生まれたかったと思うがそれを憂いても致し方が無い。よく1月生まれだと目出度いねえなんて言われるが目出度いのは手前のほうだと口酸っぱく諭したいところである。 ・・・落ちが無いのだが、この記念すべき日に久々更新。誕生日は、1週間前までには家族にリクエストを仕込んでおくべきである。正月生まれの少年少女諸君、くじけるな。
|