「ほっ」と。キャンペーン

Mコミューン 1986~1989

 同学年に複数のクラス(4組以上)があった方は思い出してほしいのだが、各クラスに様々な特徴があったはずだ。明るかったり地味だったり、まとまっていたり破綻していたり。
 4月の新学期、クラス改編の際に先生たちによる「生徒の人選」がなされる。もうここで概ねのクラスの特色が決定されている。そして、選んだ担任の先生が最終的な「味付け」をして(しなくて放置する先生も、いる)、1年間を過ごすのだ。
 さらに思い出してほしい。同じ学年のなかに、際立って統率されて、集団行動が抜きん出ていたクラスがなかったか。そして先生、生徒ともに「僕たちがルールだ!!」と言わんばかりに跋扈していなかったか。
 これは批判ではない。むしろ、どちらかというとゆるいクラスにばかり所属していた私は、いい意味でまとまり、緊張感のあるクラスに所属することを望んでいたこともあった。学級合唱も、そういうクラスのほうが上手だったし、うらやましいという思いのほうが強かった。
 ただし、統率されたクラスは、言うまでもなく「危険」な雰囲気をも帯びていた。当時、小中学校でよく使われた「団結」という言葉、あれはかつての社会運動での意味と同じだった。集団行動から外れたとき、先生だけではなく生徒間からも糾弾され、異質な空気を纏いながら、そのクラスは「団結」していくのだ。



 1986年(昭和61年)、中学1年の初夏。授業で、別のクラスとドッジボール大会の練習をすることになった。うちのクラス(D組)の担任はその時不在で、相手のクラスのM先生が2クラスを見ることになっていた。
 このクラス、A組こそが、今まで述べてきたとおりの、典型的な「統率されたクラス」であった。クラスメイト全員がオリジナルのチェック柄な黄色いハチマキをしていた。まだ本番ではない、練習なのに。全員の動きが異様にキビキビしていた。先生がとにかく厳しい。怒号が響く。もちろん別クラスであるはずの私たちにも。「こういっては何だが、貴方達D組はうちのA組と比べてレベルが低い」とハッキリ言われた。おとなしいD組の私達は悔しくても返す言葉もなかった。

 A組は夏のキャンプのときも夜中まで合唱していた。僕らがバンガローの中でどの女が好きだ?みたいな話をしているときも、蒸し暑い屋外で、オメガトライブの「君は1000%」をずっと合唱していた。
 当然文化祭の合唱でもA組は張り切っていた。抑揚のついた、よく練習された合唱だった。さすがに音楽の先生が担任のB組のほうが一枚上手だったが。(ちなみにD組は本来伴奏の必要な曲にピアノ演奏も用意できず、指揮者の子も途中でやめたりと破滅気味のままステージに立ってしまった)

 当時A組にいた奴らに話を聞くと、「確かにあのクラスはちょっと危なかった」「だけどM先生の力が強すぎて従うままだった」「あれはM先生のシュミ(特にハチマキ)」と、そこまで染まっている感じではなかったようだ。しかし一方で2年、3年と進級してもM先生はA組のままで、そこに吸い込まれた生徒のうち何人かはM先生に心酔していた。暢気だった奴なのに、A組になったとたん厳しい言葉を投げかけるようになっていったクラスメイトを何人か見た。

 M先生は、3年次には生徒会の顧問をも兼任していた。究極的には「A組による全校支配」、集団主義から全体主義への拡大化に映った。たとえ生徒会役員が他のクラスであってもA組的な行動を植えつけさせる。「生徒に徹底的に考えさせる」向きもあったが、根本は「俺(M先生)の言うとおりにしろ」なのは、明白だった。



滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

原 武史 / 講談社



 卒業して年月が経過し、そんなクラスもあったなあという程度だったが、先日70年代の統制的な学級運営を扱った「滝山コミューン1974」(原武史・著 講談社文庫)を読み、真っ先にA組のことを思い出した。
 その本では先生がクラスに欲しい子を選び、学級内で競わせ実践し、ついには生徒会の要職を占有し支配する流れを紹介していた(これではあまりにも言葉足らずであり、あの頃(70年~80年代)の集団主義教育に興味のある方はご一読されることをお勧めしたい)。

 小中学校という、単なる義務教育ではなく「団結」や「連帯」が優先されたあの頃の空気は、今では気味の悪いものだったと思わざるを得ない。
 そういう意味で、当時と違い私はA組に入らないでよかったと心底思っているが、在籍していたらそれなりにMコミューンで生き抜こうとしていたはずだ。
 あのハチマキを巻いて。
[PR]
by lidth-s-jay | 2015-07-18 15:44 | 中学校専用