3学期は、淡々と過ぎた。

 2学期では毎日出していた生活ノートは、3学期の2月以降、提出数が減った。テストの成績は伸びもせず極端に落ちもせず(要するに少し落ちた)、部活もやる気が起きずで、2年生の中だるみが3学期になってようやく訪れた。そんな無気力な時期にはヤン先生とは向き合いたくなかった。
 
 無気力なのに、2年後期に生徒会の執行部などという名誉職をやってしまった私は、次期執行部選挙(3月選挙)にも無理やり出馬せざるを得なかった(成り行きでそうなった)。
 かつてヤン先生は私にクラス委員長をやらせたかったらしいのだが、ああいう嫌われ者になるよりは格上の割にやることの少ない生徒会に逃げておいた方がいいと思って、2年の秋にヤン先生に「執行部に出るから」と言い切った。いかんともしがたい表情を浮かべていたヤン先生の顔が印象的だった。
 そして3月選挙、執行部3役の一つに出馬したが、落選した。落選を知った時は「恥ずかしかった」という気持ちでいっぱいだった。


 その後、生活ノートに「壁があるならぶち破る勇気が欲しい」といった内容を書いて提出したら、ヤン先生からこんな答えが書かれていた。
 
「壁をぶち破る、その後に何があるかを考えてお前は走っているか?姿形にとらわれてその中身をちゃんと見ていないんだろ?」

 ああ、言われた、と思った。そう、私はいつも「見てくれ」だけの姿を憧れていた。無理やり選挙に出た、と前述したが、結局は「生徒会執行部」という名前に憧れていた、ただそれだけだった。
 ただ、この時はその意味の真意を受け取ることができず、ただ黙って残りの日々を過ごした。


 「もう担任3年目は勘弁してくれ」の意味で最後の生活ノートに「ありがとうございました」とでかでかと書いた。そして最後にヤン先生から貰った通知表には「レールがないのなら自分でレールをつくれ。しっかりやれよ!」と、返事が書かれていた。
 そして、3年生となり、担任は赴任したばかりのクラミ先生に代わった。





 が。
 この3年のクラスはかなり崩壊しており(後述)、特に役職ナシの私はお構いなしに部活とかオナニーに狂っていた。
 それをみかねたのか、なぜか隣のクラスの担任だったヤン先生に拘束され「お前あのダメ教師に代わって何とかしろよ」と急所蹴りを食らった。そういえば、ヤン先生のクラスの方が悪い奴ばっかりだったのに、妙なまとまりがあった。先生の差か・・・と。認めたくはないけれど。
 一方で3年の9月、クラミ先生と一部クラスメイトに担ぎ出されて9月選挙で生徒会長選への出馬を決めた私は、職員室で出会ったヤン先生に「本当に出るのか」と心配そうに言ってきた。戸惑いが分かったのだろうけれど「まあ、お前の意思ならいいけどな」とさらに揺さぶりをかけられた。あの時、ヤン先生に先に相談でもしておけばよかったと、かなり後悔している。



 そして1989年、平成元年3月末。卒業式も受験も終わり、先生の離任式に出席した。その中にヤン先生の姿があった。
 先生は最後の言葉で惜別とか思い出を語る代わりに「後ろにいる連中(卒業生)みたいに、卒業したら髪を立てたり変な格好するのは見習わないように」と、最後まで毒気を吐いていた。
 
 離任打ち上げでPTA関係の手伝いをしていた父が、出向く際に「お前ヤン先生に何か餞別渡さなくてもいいのか」と言ってきた。考えもしなかったが「じゃあ、なんかあげといて」と答えた。父は車のプラモデルを買ってヤン先生に渡したらしい。



 ヤン先生は1年生を担当していた1986年、昭和61年当時25歳だったらしいので、もし無事に勤めていたら今はもう主任級か下手したら教頭ぐらいになっているかもしれない。3年生のクラスは楽しそうだったので、きっと何度か同窓会などもやっているだろう。
 
 最後の1年だけヤン先生のクラスで、というのがよかったなあ、と思った。
 最初の2年ってのは、ちょっときついわ。 
                                       (おわり)
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by lidth-s-jay | 2005-04-30 20:40 | ヤン先生専用

 2年生の2学期始業式の朝、生活ノートの最初のページに、私はこう書いてヤン先生に提出した。
 「中途半端で終わらせない」
 そして1学期とはうって変わって、毎日「生活ノート」を提出することにした。たとえ書くことがなくても「今日は何もない一日でした」と1文書いて提出。とにかく出すことだけに執着した。

                        *
 10月。
 文化祭で2年生共通テーマとして「人文字・パネルアート」という作品を作ることになった。甲子園のアルプススタンドで見かける(または「トリビアの泉」での八分咲き、とか)アレである。巨大壁画を分割、その数100枚以上。部分部分を描き完成させ、そして体育館のステージ目一杯使ってパネルを披露する、ある意味「昭和の大偉業」である。それをそれぞれのクラスで制作する、というのだ。
 ちなみに我が2年D組のモチーフは
c0004895_1457775.jpg

 マグリットの「話術4(The art of the conversation 4)」であった。当時からマグリットが好きだった私だが、この絵を探してきたのはヤン先生だった。この絵の模倣。やる気は湧いたが当初は「無理に決まっとるだろが」と思っていた。
 あまりの無謀な挑戦、先の見えない作業は、脱落者も多かった。私も「だめだろ」と思っていたのでやる気はすぐに反れた。月日だけが経ち、本当にD組のパネルだけ無し。の危機が迫っていた。
 
 誰が最初にやりはじめたのだろうか、昼休みや部活の合間に、ヤン先生のアジト、技術指導室に絵描きの準備をする人が増えてきた。増えた、といっても4,5人である。明らかに「ヤン先生シンパのバカ男ども」である。シンパというよりヤン先生に脅されたのであろう。私は彼らが脈々と作業をやっていることに、ちっとも気づかなかった。
 私も絵の具の匂いで充満した技術室に入り、刷毛を片手にとってペタペタ塗り始めた。バカ連の仲間入りである。
 
 それでも間に合わない2,3日前、ついにバカ連は隠れ居残りを決行した。ヤン先生は「お前ら隠れてやれ」と命じ、技術室に監禁されてペタペタ。10人ぐらい全員男。夜になってもペタペタ。 午後8時ぐらいになって再びヤン先生が現れた。ジュースとモスバーガーが差し入れられた。疲労感漂うバカ連も元気をすぐ取り戻した。どうせ家に帰っても勉強もせずオナニーしかすることのない連中ばかりである。差し入れで満タンになったエネルギーを再びパネルにぶちまげる。
 結局11時過ぎに一旦終了し、遠くから通ってる生徒はヤン先生のボロ車で送られることになった。私も結構離れていたので送られたが一番最後に回された。校区のあちこちの家まで送り、玄関先で謝るヤン先生。車に戻って「さすがにどこの親もいい顔はせんなぁ」と苦笑するヤン先生。ちなみにうちの親は2年もつきあってる先生だけに笑って出迎えた。
 そして、ヤン先生は学校に戻り引き続き作業を続け、翌日早く登校した私たちの声で起こされた。
 ギリギリ、間に合った。少し構図は崩れているものの、信じられないぐらい精度の高い「話術4(2-DVer.)」は完成した。

                        *

 勉強とか部活とか遊びとか、私にとってはほぼ全てにおいてバランスの取れた生活ができた2学期だった。1学期と違うのは「冷静になれた」というところだろうか。ヤン先生に言わせれば「お前はなんか大人になったな。1年ん時と違うな。つまらん」。結局それか。
 
 結局2学期は、日祝日含め全て「生活ノート」を書ききった。完全に日記化していた。縁日の輪投げで損こいたとか、アメリカンドッグ食ったら腹壊したとか、余計なことも書いた。ヤン先生も自分の体験を交えて、異論同論を書いていた。何を返信されようと、確かに先生からの言葉は、楽しみではあった。むかつくけど。

 賑わしかった年も、冬休みに入り、静かに過ぎていった。
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by lidth-s-jay | 2005-04-13 15:37 | ヤン先生専用

 1990年(平成2年)夏、中学2年ときのクラスの同窓会が開かれた。どういうわけか我々の中学校の校区ではないところへバスで赴き、小料理店の座敷へ。
 クラスの半分ぐらいは来ていただろうか。メンバーは様々で私のような普通科高校生もいれば元ワルワル組もいた。卒業して1年半近く会っていなかった連中とは、ビールですぐ馴染んだ。
 そして、このクラスの担任はヤン先生。先生も来ていた。一緒に飲んでいた。
 先生は既に別の中学校に赴任していた。この時も相変わらず問題児を抱えていたらしく、生徒の写真を見せて「こいつが行方不明でナァ」としみじみ語っていた。
 私とはあまり話さなかった気がする。本当は色々話したいこともあっただろうし、特別気を遣っていたわけでもないけど、先生は他のワルなやつらに引っ張りだこだったし、私も他学校の連中と盛り上がっていて、機会を逃してしまった。その同窓会以来、ヤン先生は勿論、他の同級生とも会うことは殆どないままだ。

 *

 1987年(昭和62年)4月。2年生に繰り上がった私は呆然としていた。
 「え・・・またヤンかよぉ・・・」
 2年D組、ヤン先生。生徒は入れ替わったけど先生は同じ。
 正直、あのくどい説教にはコリゴリとしていた。1年の最後の方は殴られることもなくなったものの「バカ」「オメーラ」「ちゃんとしろよ」「コラ」の四段活用はちっとも減らずで、愚痴多すぎに参っていたのだ。
 一方の私は、何か言いたがり背伸びしたがりの生意気なガキから少しずつ脱皮してきて、センセーに反発したところで暖簾に腕押しだ、と悟るようになっていた。そこへ2年続けて担任がヤン。倦怠感は一学期から一気に加速した。
 
 それまで殆ど出していた「生活ノート」は全く提出しなくなった。書いたことに対して反論されたり呼び出し食って叱られるのが嫌だったので、何か言われるかもしれないけど、もういいや、ってな気分で書くのを止めた。
 ところがヤン先生は1年の時と違い、私をマークしなくなった。確かに1年の時よりも2年は個性豊かな悪いクラスだったので私なんかに目を向ける余裕もなかったのかもしれない。そして生活ノートの件も夏休み前の通信簿に「生活ノートも・・・」とだけ記してあった。
 確かに、1学期は私も目立った行動は控えた。クラスの委員長にさせられそうなところを「理科係」で逃げた(個人的には大成功だった)。その分学業や部活に専念できたのだが、そんな私を「お前、2年になったらツマンなくなったな。実につまらん」と嘆くヤン先生。知るかそんなもん。
 結局、私も先生も互いへの興味が薄れていたのだ。

 事態は2学期に急変する。というか、自分で急変させた。
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by lidth-s-jay | 2005-04-08 00:50 | ヤン先生専用

 ヤン先生とは色々あったので、カテゴリー設定してみた(笑)というか、中学1・2年、ヤン先生が担任だったので、書く事は多くある。ので、小出しにヤン先生カテゴリーで紹介していきたい。

 と、いうわけで、珍しく連続投稿してみる。以前書いていた日記の中で、ヤン先生とのやりとりが残っていたので全文転載してみた。そういえば私が(特別学級から連れてくる担当)やってたなーって、懐かしくなった。



幼稚園の頃、同じグループ席に
知的障害の子がいた。
最初は「同じ」組の子と思っていたけれど、
その子は体調を崩してか、度々吐瀉を繰り返していた。
そんなことや、周りの子の反応を見ているうちに
その子を避けるようになった。

小学校に入り、その子を含め、知的障害などの問題がある子だけ
複式学級に編入され、同じクラスにはならなかった。
私やみんなは相変わらず複式の子達を避けた。
接触することも嫌った。
まるで汚れたようなものを見るように。

中学1年のとき、幼稚園で一緒だった子が
クラスに仮所属となった(複式が本所属)。
隣の席になった私は、ホームルームの度に複式まで呼びに行き
いろいろ面倒を見ていた。別にいやとかそういう感情は、もうなかった。

しかしある日、クラスのその子の椅子が横にずれていたので
私は「足で」椅子を直した。
その場を担任の先生が見ていて、
思いっきり平手打ちをくらった。
そのあと職員室に連れられてものすごく叱られた。

今思えば、先生は「怒りに震えた」というより悔しかったのかもしれない。
普段(あまり意識していないけれど)面倒を見ている私を
褒めてくれたことがあっただけに。
私のほうは、確かに小学校まであった「差別意識」が残っていたのだろう。
自分が情けなくて、先生に叱られて、ボロボロ泣いた。

あれから10年以上たって、店の商売などを通じて
知的障害のある方と接する機会も多くなった。
今は差別意識などないけれど、特別な目で見てしまうことは、ある。



今日、龍郷町の大島養護学校へ備品などを配達に行った。
少し坂を上ったところにあり、広い海が見渡せる。
ホワイトボードやマットの他、
バスケットボールのゴールや、2人乗り自転車など。
自転車は組み立てもやった。小さめのソフトビニール製。
プレイルームの、日の当たるところに置いておいた。
新しい、カラフルな自転車。

喜んで乗ってもらえるかなあ。
(2003年10月17日「海の見える養護学校」)

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by lidth-s-jay | 2005-04-05 23:39 | ヤン先生専用

 1986年4月、中学校の入学式。桜満開の中、校舎前にクラス名簿が貼り出され、同じクラスになったやつと小突きあって笑いつつ、入学手続きみたいなのをしていた。
 
 「ところでセンセイって誰?」
 小学校に続いて同じクラスになったモリが私に尋ねた。そういえば・・・みてないな。あれ?・・・まあいいか、変な気持ちで体育館での入学式を迎えた。
 入学式でも不在。D組の担任、ヤン先生(新任)はいきなり遅刻してきやがった。

 ヤン先生、25才(当時)。担当は技術。従って女子との教科接点は無しだった。なんかエロかった。それは現在のセクハラとは違う、単なる「ドウテイっぽい」バカエロさだった。

 私にとっては今まで会ったことのない人種だったので、接し方が分からなかった。とりあえずいいとこ見せとけと思って生活記録帳(以下このブログでは生活ノートと呼ぶ)で全学連とか安保反対とか意味不明な単語を書いて提出してたら、家庭訪問の際に「友達がいなさそうにみえる」と言われてしまった。確かに友達と呼べる奴はいなかったが・・・。
 
 叱られた。とにかく叱られた。集会の時にモリと小突きあいしてチョッカイしてたら後で体育館の裏に引きずられ蹴られまくった。鼻水ダラダラ出て泣きじゃくった。
 クラス委員長のカゴはもっとボコられていた。ヤン先生は委員長をとことん吊るし上げてた。カゴも泣いてたが、その割にはヤン・カゴの二人でクルマだとかポルノ映画の話で盛り上がっていた。
 
 女の子の受けは最低レベル。とにかく嫌われていた。ような気もするが、思春期だからだろう。ただ、いつもヤニ臭くて身だしなみ0点のヤン先生がとても女子に好かれるとは思えなかったのも事実である。



 2学期が始まったのにヤン先生はやっぱり来ない。イボ痔で入院したのだ。退院後、半日使って闘病記を熱弁するヤン先生。本人は「おしりのエッチな病気」とか言ってた。
 
 一度結婚したが嫁に逃げられたとか、山のふもとのボロい家に住んでいるとか、ステッカーだらけのトレノに乗って夜爆走しているとか、どれが本当なのか、記憶も風化しつつある。多分全て本当だろう。本人が言ってたんだし。 

 一番悪い連中が集まる野球部の顧問まで引き受けていた。ジャイアンツのファンだったのでいつも野球の話でドラゴンズシンパの生徒と口論していた。
 
 まとまりがなくなってきたので続く・・・。
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by lidth-s-jay | 2005-04-04 23:16 | ヤン先生専用