Shinkansenも修行の場

 東京に行きたい
 新幹線に乗りたい
 それだけのために、1回に往復2万円近い旅費(自己負担)を払って就職活動をしていたことがある。東京の書店、1社に「企業説明会」「人事部訪問」「筆記試験」「1次面接」を受けに行った。全部、日帰り。結局最終面接の案内前に他社の内定が出て辞退することになり、多くの意味で徒労の多かった就職活動だったが、「でも新幹線乗れたし」と、あまり後悔することはなかった。きっとその頃は、就職活動期とはいえ余裕があったのだろう。


 2回目の人事部訪問で新幹線を利用した際、こんなことがあった。5月中旬のことである。

 名古屋駅から乗車し、席に座ってしばらく、僕はるるぶのガイドブックで地図を見ていた(訪問先は確か東京駅~銀座付近だったのでその辺を見ていたと思う)。
 すると、隣の席にいた、50代過ぎの女性が話しかけてきた。「東京へは旅行ですか?」
 いや、就職活動で、と、瑠璃カケス。あと二言三言で会話も途切れるのかと思ったが、女性はズンズン話しかけてきた。なんだこのオバサン。身なりはキチンとしていて、参観日に来る時のうちの母ちゃんみたいな格好。どちらかというとザマス系だが、嫌味な感じは、あまりしなかった。ただ、自分は神戸からやってきた、息子は日産自動車にいる、などなど、それ聞いてどうしたらいいのさと思う話を続けられた。
 「ところで今日の新聞読みました?」と唐突に聞かれ、「??」となっていると、朝日だか日経だかの真ん中ら辺の記事を出して見せてくれた(仮に新聞を読んでいたとしても絶対読み飛ばしているページだ)。内容は第2次世界大戦後のドイツの4カ国分割統治について。チャーチルとかドゴールの話が出た。何か質問されて、全然分からなかったので「勢いだからじゃないですか(適当)」と答えたら「違う違うそんなものじゃないんですよ」と全面的に否定の上、持論を展開された。俺何やってんだろう・・・。
 
 豊橋ぐらいから、ずーっとこの調子で話しかけられ、熱海ぐらいを通過したところで「ところでこんな本読んでるんです」と、A5サイズの本を出してきた。タイトルは「知の技法」(東京大学出版会)。東大教養学部の演習テキストなのだが、当時一般書籍としても話題になっていた本(僕は知らなかった)だった。女性はこの本についても、また詳しく説明しはじめた。

 この押しの強さ、確固たる自信、妙なインテリ・・・学者なのかどっかの会社のえらいさんなのかただの市民活動家なのか。東京に近づいた頃になって「私、最近退職して、今日挨拶しに行くんですよ」と教えてくれた。また出してくれた資料を見ると、外国(ドイツかスペイン)の在日商工会議所だった。よく分からないけど、すごいなと思った。本当によく分からないけど。

 東京駅に着き、女性と僕は別れの挨拶をした。握手をしながら「就職活動がうまくいくよう、健闘を祈ります」と言われた。
 結局この間、お互い名前も名乗らず、また連絡しますという話もなく、勿論これっきりの出会いだった。会社訪問前にかなり疲れてしまったが、今思えばアレで緊張もどこかに飛んでいったような気がする。
 毎回、あんな人の相手してたら「いやよく分からないんで」と寝たふりを決め込んでいたはずだが、それこそこんな出来事はこれっきりだった。なんの準備もなく相手されたからこちらも面食らったが、心構えさえあったら、色々聞いていたかもしれない。堅い話だけじゃなくて、音楽や外国の話など(そして今だったら熟女に関するFAQをギリギリまで聞くかもしれない。オバサン大好き)。
 

 先述の「知の技法」は、訪問の帰りに購入して、10ページぐらい頑張って読んだ。語るには何もかもが不足している。もう少しあの女性の話を聞いていればよかったかもしれない。
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by lidth-s-jay | 2011-07-02 23:26 | 学校全般

スマートかつ不便なもの

 大学に通うのが非常に苦痛だった頃がある。
 勉強が嫌だ、通学に時間がかかる(あとどこの学校も同じだと思うが坂が多い。辛い)、という理由もあるが、それに加えて困ったことがある。
 教科書が異様に重いのだ。

 高校ぐらいまでの教科書はカバーもペラペラだし、ページ数も知れている。ところが、大学で使うのは教科書というより、いわゆる専門書が多い。ハードカバーで、4cm近い厚みの本を、たとえば1日に3コマ分ぐらい授業があると、それを持っていくだけで手がだるくなる。
 さらに、クラスがはっきり分かれていて、自分の机があった中学高校と違って、常に教室移動を強いられる大学は、教科書をどこかに置いておくことが原則不可能だった。だから毎回持ち歩くしかない。

 そんなわけで、カバンの中は常にパンパン。リュックタイプにすれば多少楽になるが、満員の地下鉄では邪魔なので良し悪しだった。

 カバンに収まらないし、岩みたいに膨れ上がってかっこ悪い。そんな悩みをスマートに解決する道具が、あった。これだ。
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 ブックバンド。教科書を布ベルトみたいなので十字に縛って持ち歩く。教科書にそのまま巻きつけるので、それを持っているだけで、「大学生だ」「勉強してるっぽい」「なんかかっこいい」「コンパとかすんのかな」などと思われるのかどうか。とにかく、このブックバンドを使用する学生は多かった。
 僕もスマートさんになりたくて、緑色のブックバンドを持っていた。しかし・・・どうしても十字に縛ることができなかった。不恰好になって本がこぼれそうになった。しかも、カバンの中がすっきりしても、自分が持つ教科書の総重量が変わるわけではないし、手は塞がるし、雨の時は濡れてしまうから意味が無いし、で、機能性は非常に低かった。無理に2回ぐらい使って、すぐやめた。
 
 しかし、カバンがふくれる悩みは、教科書を持っていくのをやめたり、そもそも授業に出なくなったりで、根本的な解決を得たのだ。何か本末転倒的な感じもするが。ていうかあんな分厚い本3,000円前後するのがとっても勿体無い気がする。大学の売店にズラッと並んでいたが、大して使わないのに買わされて、詐欺じゃないのかと思った。

 iPadとかAmazonのキンドルみたいな端末が安く買える時代になったら、そんな心配も軽くなるんだろうな。iPadをブックバンドで持ち歩く天才が出てくるかも。
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by lidth-s-jay | 2011-07-02 23:25 | 学校全般

 後半は瑠璃カケスの持論を。

 いじめ被害者の自殺についてだが、死んだらダメだ、なんてことはこれっぽっちも思わない。
 親兄弟が悲しむとか、そんなのは周りのエゴだ。そのぐらい、いじめられた人間は苦しんでいる。
 死んだほうがいい、なんて思わないが、無理して生きる必要なんてない、と思っている。それも究極の選択肢である。
 ただ、例の大臣宛手紙みたいに中途半端に「死にます」などと触れ回るのはやめてほしい。たとえ本音であっても。死ぬ前にやっておくべきことは、数多ある。
 
 重要なのは「無駄に死んではならない」ということ。絶対に復讐せよ。いじめ加害者の肉体・人生をボロカスにするぐらい。とにかく、やられたことを倍返しする覚悟を持ってほしい。
 本来、いじめる者こそ、普通に生きていくことは許されないのだ。自分の過ちを、一生悔いるぐらいの重荷を背負っていけ。
 
 いじめ被害者は、負けたまま生きてはいけない。たとえ人生の終わりを悟っても、せめて一矢報いるエネルギーだけは、どうか忘れないで欲しい。



 付記:現在を生きる「過去のいじめ被害者」の方へ。
 本来、「いじめられていた子供だった」とか「いじめられた体験」を紹介することは、あたかも同情を誘うかのような表現であり、現在の当人の評価とは無関係です。過去にいじめられようが、そんなことは知ったことではありません。
 このブログの性質上、私は過去のいじめ体験について綴りましたが、本来は、現在とこれからにつながる思いと、過去を「懐かしむ」記憶の断片、それらを文に書き言葉を発していくことが、私自身の務めであり、私の在り方はないか、と思っています。
 以上、持論を述べましたが、私も自我に囚われること無く、多くの見識・体験から学んでいけたら、と思います。
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by lidth-s-jay | 2006-11-17 12:29 | 学校全般

 最近の社会報道は「飲酒運転」から「いじめ問題」にシフトしている。
 生徒~学校長の自殺、教師の加担、事件後の加害者態度、文部科学省への自殺予告など、問題は枚挙に暇が無い。
 ところで、いじめ問題、瑠璃カケスが小学校・中学校を過ごした頃の特に1980年後半も大きな問題となっていて、AC(公共広告機構)のCMや、各種いじめレポートなどの本をよく見かけた。1990年代に入っても、山形のマット圧死事件、愛知西尾の大河内君自殺事件、また2000年には名古屋緑区の中学校で延べ5000万円の恐喝事件が発生している。
 このうち、今回は当事者となった私の「いじめ体験」について書こうと思う。
 (幸いながら)ずいぶん記憶も薄れているが、思い出せる分だけでも綴ってみたい。


小学校
・2年生:同じグループの女子(あだ名はゴリラ)にとことんいじめられた。確か指でつねる、ような行為だったと思うが、いつも泣かされた。学校に行くのも嫌だった。3年になって、ようやくゴリラから解放されてホッとした。ゴリラは4年に隣の市に転校していった。

・3年生:やはり同じグループの女子に「しつけネタ」でいじめられた。いじめ、というほどでもないような気もしたが、泣いてばかりだったので、期末の通信簿に先生から「今期は女子にやりこめられたね」とコメントされていた。

・5年生:理由は不明だが、飛び降り自殺を図ろうとする。実際にはベランダに足をおとした程度なんだが。さすがに先生が焦っていたようだ。

・5年生その2:複数人に服を脱がされて全裸にさせられた(2回ほど)。これもあんまりいじめられている感覚はなかったが、さすがに2回目にやられた時は泣いた。それ以来「いじめっぽい」行為は無かったはずである。


中学校
・2年生後半~3年初期:これが一番酷いいじめだった。不良ぶってる同級生と肩がぶつかっただけでボコられて以来、放課後、私を見つけては校舎内の予備階段に呼び出して、殴打してきた。
 さらには「センズリしろ」と言われて、マスターベーションをさせられたこともあった。
 とにかく会う度にいじめられるので、夜寝るときも不安で寝られず、布団近くでラジカセの音楽をかけて気を紛らわせていた。

高校
・2年生:クラスの同級生が、ふとしたことで「声がカマっぽくて気持ち悪い」と、散々なじられた。英語の授業でテキストを読み上げた時、授業終了後、明らかに聞こえる声で、「あいつの声聴いてるとムカつく。殴りたくなる」と言っていたことも。


・・・など。いわゆるシカトや村八分的なものはなかったが、いじめには変わりない。
 中学で私をいじめた奴は、高校には行かず、衣料系の店で勤務しているという話を10数年前に聞いた。会ったところで復讐とかはしないけど。
 一方で高校ん時のは、もう殺意でギラギラしていた。死んでほしかった。3年からクラスが離れて事なきを得たが、もし一緒だったら高校は休学する可能性があった。3年で、同じく2年で一緒だったドラゴン(やや悪系)が「あいつムカつく奴だったよな」と言ってた時、自分だけじゃなかったんだと思うと救われた気がした。
 なお、この加害者(実名出したいぐらいムカつく)、地元の名門国立大を出た後、某大手証券会社に勤務している模様。さすがに今は復讐とか、そんなことは考えないけど、フツーに日向を歩いているかと思うと、一生かけて許せない気分だ。

 まとめは次項に改めて。
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by lidth-s-jay | 2006-11-16 12:16 | 学校全般

こちら宿題相談室

 小中学校の夏休みも残り1週間~10日ほどになった(地域差はあると思います、すみません)。夏の甲子園が閉幕すると、そろそろヒグラシの音が夏の終りと「夏休みの宿題コール」となり残響音を奏でていく。
 そもそも現在夏休みに宿題が出されているのか定かではないのだが、瑠璃カケス幼少のみぎりはたんまりと出ていたし、現在いい大人になってる方々も同じはずだ。もちろん殆ど残っていたし、全部片付いた記憶もない。

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by lidth-s-jay | 2006-08-21 16:23 | 学校全般

 それでは輝かしき「腐れ縁延長版」の3名を紹介したい。

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by lidth-s-jay | 2006-08-12 05:23 | 学校全般

 特に引越しを経験せず、同じ町でずっと暮らしてきた方なら、小学校・中学校に限らず、高校まで一緒だった同級生も手で数える程度にはいらっしゃる筈である。私の場合でも、思い出せるだけで10人はいる。多分もっといるだろうけれど控えめに書いてみた。いわゆる「腐れ縁」である。

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by lidth-s-jay | 2006-08-11 05:15 | 学校全般

 今回は既に高校を卒業した時点ではあるが、どちらにしろ10年以上経過しているので書いてみようと思う。

 今私は長野に住んでいるが、自分の記憶の中で外せないのが「電車で長野へ遊びに行く」である。無論、長野ばかりではない。結構な回数訪れたのですべてを紹介することはできない分、覚えている「電車の旅」を思い起こしてみる。



その1「東京~名古屋(夜行)」
(1992年6月)
 東京でのサークル行事のあと、宿泊せず一部先輩たちと帰ることにした。その時乗ったのが東京を23時半近くに発車する夜行普通列車(岐阜の大垣まで行くことから俗に「大垣夜行」と言われていた)を利用した。
 行きは新幹線(2時間)に対して、夜行は6時間以上はかかっていた。小田原か熱海を過ぎてから豊橋までは停車駅も少なくなるのだが、たとえば浜松でなんか長いこと停車したり(弁当ぐらい売ってほしいのにただ停まるだけ)、のんべんだらり、という感じだった。
 はじめての夜行列車だったので猛烈に興奮してたら車掌に怒られた。まあ寝る時間だし・・・。
 静岡あたりを通過する時のまばらな照明が蛍火のようで幻想的だった。

その2「土岐市~松本」
(1992年8月)
 夏休みは電車が増発されるので、この時も臨時快速に乗った。
 通学で使う電車と違って、窓側に小さなコースターのようなスペースがあるのが、使わなくてもうれしかった。
 落合川(岐阜)に架かる鉄橋を抜けて長野に入った時、延々と続く森の中を走る電車。信州に来てるんだなあ、という感慨深さはよく覚えている。

その3「名古屋~豊橋~塩尻~多治見(周遊)」
(1993年11月)
 豊橋と塩尻の間で飯田線という地方路線を利用。これがまた3分間隔ぐらいで駅がある(そして誰が乗るのか怪しいぐらいの)ダラダラ路線だった。名古屋を朝6時過ぎに出てぐるりと廻って多治見に戻ったのは午後5時を回っていた。よく一人で行ったなあ。誰もつきあわないか・・・。
 車内で対面に座ってた女性が時刻表全国版観ながら都コンブをかじっていた。
 飯田から快速列車に乗り換えたあと、駒ヶ根・伊那あたりで見えた南アルプスに感動。しかし伊那市駅あたりで超・旧型ヤンキーが乗車して萎えた。

その4「京都~岐阜~東京~松本~多治見(岐阜→東京間で夜行利用)」
(1994年3月)
 もともとは京都に遊びに行った帰り、というとんでもない設定。
 以前の東京発夜行の逆だが、富士山登山客が結構いた。
 東京に夜明け前に着くので、何もやることがなく、とりあえず新宿まで出向いて朝食を食べてから、中央線を乗り継いで帰った(高尾→甲府→松本→中津川、の順)。
 高尾を過ぎてからの景色の変わりように驚愕した。絶境という言葉にふさわしく。
 甲府の駅で本屋によったらゲイ雑誌の「さぶ」を見つけて感動した。
 また、当日は天気がよくなかったこともあるが、長野に入ったとたん周りが真っ白になり、気がつくと鉄橋の下に雲があった。ちなみに現在住んでいる場所である。

その5「名古屋~京都~博多~西鹿児島(現在の鹿児島中央)」
(1994年8月)
 書き出すと止まらないネタなので今回は省略。後の人生に少なからず影響を残した。


 すべて大学入学後で、電車代を捻出できる貯えと体力があったからできた(今は貯えも危ういが、県内への移動も普通電車できつくてやる気が起きない)。貧乏旅行だから楽しむ、というよりも、単に時間に余裕があったということも大きい。
 ちなみにこうやってみると行った場所は西日本と首都圏・甲州地方ばかりで、東日本地域でも特に北海道・東北地方にはまだ赴いたことが無い(電車以外の交通手段含む)。電車でみちのくへの旅ってのは心が悲しくなるので避けてきたが、さて今後北へ行くことはあるのだろうか。

 電車の旅はケツが痛くなる以外は楽しくて心が落ち着く。今も昔も変わらない。
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by lidth-s-jay | 2006-02-25 22:43 | 学校全般

まとめてコネタ集

 題名:弁当の時間に

 冬の期間だけ、寿司1人前(生物あり)を持ってくるゴッちゃん。猛烈に美味そうだった。
 大人になった今でも寿司の出前にもためらいを感じるのに、高校2年の分際で、しかも特に自慢もせず黙々と食べるゴッちゃん。
 食べ終わった後の昼休み、毎回UNOを広げて黙々とカードを配るゴッちゃん。1年ん時も別のクラスでUNOをやっていたらしい。
 そんなゴッちゃん、小学校の合宿で夜「おかあさ~ん」とホームシック泣きしたという情報もある。大して価値はない情報であるが。

 題名:アイちゃん

 1年の体育の時間、男女とも長距離走。、男子がグラウンドに座って待機していたとき、女子が長距離の練習でぐるぐる回っていた。
 その集団の中で光っていたのがアイちゃんだ。どでかい胸をぶるんぶるん揺らして疾走。目が離せなくなり、さらに周りの連中にも言いふらす私。「すげえのがいるぞ、あれあれ!!」と。
 アイちゃんは他のクラスの女子なのでジャージの名前と胸以外の情報は皆無。いちいち胸だけで同じクラスの奴から情報を聞きだす勇気も無い。容姿はいたって普通(胸除く)。
 3年になってアイちゃんと同じクラスになったが、思ったより目立っていなかった。しぼんだのか、夢をみていたのか。アイちゃんは同じ委員会の超クソ真面目青年ヤス君とつきあっていたのだが、実際の交際上、どうだったのかいろいろ気になるところはあった。
 同じクラスだったことがあるのに、他に覚えがないという私もすごいし、それだけが10年以上経っても思い出されるのもまたすごい。というかバカである。


 題名:小学校運動会・組み体操(5・6年生)の練習中に
 
 四つん這いになった相手の上に立つのだが、その際対面側にいた5年生の女子の小さな胸の先が見えていた。2回。顔は並以下ではあったが・・・。
 オカズ耐用年度は開始後2年ぐらい有効だったと記憶している。

 題名:中3の修学旅行の際
 
 異常集団と言われていた3年A組は、夜中学校に戻ってきた際、なぜか感極まってみんな泣いていた。いわゆる「団結力強化の達成」なんだとか。気味悪かった。
 「団結」などのウザすぎる標語については後日。
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by Lidth-s-jay | 2005-11-10 11:53 | 学校全般

校舎回想

 何だかんだ言って、はじめての就職から現在に至るまで、私と学校とは、繋がりが切れた事はなかった。名古屋での書店勤め、奄美に来てからの学校向け営業、など。
 特に前職では学校に入って、教室まで回って商品を配達していた。そこで気づいたのは、私が小中学校で過ごしていた頃と違い、たとえば学年別に職員室が分かれていたり、「心の教室」のような場所があったことだ。あまり詳しくは書けないが、中学を卒業してはや15年以上、その間に多少なりとも現場は変化していたようである。



 私がいた頃の学校はボロかった。木造でしょっちゅう雨漏りしていた。なんかリンゴ系の酢の匂いが漂う場所もあった。
 
 理科室は恐怖の場所だった。ホルマリン漬けのナントヤラがハブ酒のように陳列されていた。ボロボロになった人体図(昭和47年とかそういうやつ)、サビだらけの水道の蛇口。
 
 音楽室。バッハとかモーツァルトの肖像画は、やっぱり朽ちている。ピアノはロクに調律されていない。そのくせ勝手にネコ踏んじゃったを弾くとヒステリックなまでに先生に怒られた。 

 美術室。ヤンキーの溜まり場であまり近づけなかった。なんで制服着てるだけでドツかれたのか今だに分からない。アホそうな一つ上のやつに。今でもアホ面だろうか。

 図書室。禁帯出(借りることができない)な本ほど借りたいのに、と思いつつ、ポプラ社の少年探偵団シリーズのコーナーを避けて(表紙が怖かった)暴れん坊将軍のテーマを口笛で吹いてたら怒られた。 

 給食を運ぶ為なのか、小学校には業務用エレベーターがあった。当然遊ぶやつがいるわけでやっぱり無茶苦茶怒られていた。でも羨ましかった。怒られてでも乗りたいという度胸は、なかった。後年、就職して同じエレベーターがあったのでウサ晴らしに乗りまくった。最高の気分を得た。

 小学校のプール、女子更衣室に突入した勇者もいた。職員室の更衣室(先生入り)にまで突入したヤツもいたが何故か担任の先生(女性)からのお咎めは無かったらしい。なぜ・・・。

 ・・・なんか他にもありそうな気がしたがとりあえずこの辺まで。どこが校舎回想だ、という気もするが。 
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by lidth-s-jay | 2005-07-04 23:50 | 学校全般