「ほっ」と。キャンペーン

百人一首と6年3組

 子供の頃、年末年始を挟んで百人一首を楽しんだ方は多いと思う。
 端的にいえば百人一首もカルタの一種類であるが、「和歌を覚えてしまえば勝てる」という要素が強いため、上の句を覚えて、いち早く下の句の札を取れるかに躍起になったものだ。よく言われる「むすめふさほせ」のように、中には上の句一文字で下の句を当てることもでき、従ってみんなが狙ってくる(紫式部の「め~」でクワッ!!となった方もいるだろう)。逆に「きみがため」「あさぼらけ」など、初句(出だし5文字)が共通しているものもあった。もっとも暗記とは関係なく自分の好きな和歌をチョイスしてその時だけ頑張って取る、なんてこともあった(そしてそれが他人に取られるのがこの上なく悔しいことであった)。



 その百人一首、学校でも授業の延長で数回やったことがあるのだが、よく覚えているのが中学1年生の百人一首大会でのことだ。

 うちの中学校は2つの町の小学校が一緒の校区となっていたが、隣のシモイシ小学校の6年3組出身者が、妙に百人一首のレベルが高かった。
 百人一首とは話が違うが、このシモイシ小6-3は、別の学校出身の私から見て、他の1組・2組に比べると「おとなしい」クラスの印象だった。どうやら3組はオジサンっぽい先生が担任で、何かと反省文を書かせたがる人だったらしい。ああどこにでも面倒な先生っているんだなあと思っていたが、加えて3組はどういうわけか百人一首に熱を入れていたようで、全部の和歌(百首)を暗記させようとしていたとか(この辺記憶が曖昧)。真偽のほどは不明だが、確かに“おとなしい”3組出身者が百人一首で豹変する姿は、なかなか面白いものを見た気がした。
c0004895_1634476.png

 私はシモイシ小でも6年3組出身でもなく、加えてカルタの類が不得意(反射神経が鈍い)だったので、百人一首は苦手だった。最初にクラスで百人一首をやって、取れた枚数に応じてランク分けし、今度はそのランクに併せて他のクラスの子と同レベル対決を行う。我々Dランクの烏合の衆がヘボ百人一首(上の句全部読みきっても取る札が分からない、など)をやっている一方で、別の教室では3組出身者を中心としたAランクの猛者がハンターのように札を狙い撃ちするシーンが繰り広げられた。同じ学年とは思えない。学年260名の頂点に立ったのがどんな子なのか、まったく覚えていない。
 
 学校でやる百人一首は冬ではなく、夏にやったほうがいいと思う。そのほうが男子は俄然張り切るはずだ。まあカルタでもいいのだが。


※文中画像は「いらすとや」様のものを一部加工して使用しております。
[PR]
by lidth-s-jay | 2016-01-16 16:52 | 中学校専用

Mコミューン 1986~1989

 同学年に複数のクラス(4組以上)があった方は思い出してほしいのだが、各クラスに様々な特徴があったはずだ。明るかったり地味だったり、まとまっていたり破綻していたり。
 4月の新学期、クラス改編の際に先生たちによる「生徒の人選」がなされる。もうここで概ねのクラスの特色が決定されている。そして、選んだ担任の先生が最終的な「味付け」をして(しなくて放置する先生も、いる)、1年間を過ごすのだ。
 さらに思い出してほしい。同じ学年のなかに、際立って統率されて、集団行動が抜きん出ていたクラスがなかったか。そして先生、生徒ともに「僕たちがルールだ!!」と言わんばかりに跋扈していなかったか。
 これは批判ではない。むしろ、どちらかというとゆるいクラスにばかり所属していた私は、いい意味でまとまり、緊張感のあるクラスに所属することを望んでいたこともあった。学級合唱も、そういうクラスのほうが上手だったし、うらやましいという思いのほうが強かった。
 ただし、統率されたクラスは、言うまでもなく「危険」な雰囲気をも帯びていた。当時、小中学校でよく使われた「団結」という言葉、あれはかつての社会運動での意味と同じだった。集団行動から外れたとき、先生だけではなく生徒間からも糾弾され、異質な空気を纏いながら、そのクラスは「団結」していくのだ。



 1986年(昭和61年)、中学1年の初夏。授業で、別のクラスとドッジボール大会の練習をすることになった。うちのクラス(D組)の担任はその時不在で、相手のクラスのM先生が2クラスを見ることになっていた。
 このクラス、A組こそが、今まで述べてきたとおりの、典型的な「統率されたクラス」であった。クラスメイト全員がオリジナルのチェック柄な黄色いハチマキをしていた。まだ本番ではない、練習なのに。全員の動きが異様にキビキビしていた。先生がとにかく厳しい。怒号が響く。もちろん別クラスであるはずの私たちにも。「こういっては何だが、貴方達D組はうちのA組と比べてレベルが低い」とハッキリ言われた。おとなしいD組の私達は悔しくても返す言葉もなかった。

 A組は夏のキャンプのときも夜中まで合唱していた。僕らがバンガローの中でどの女が好きだ?みたいな話をしているときも、蒸し暑い屋外で、オメガトライブの「君は1000%」をずっと合唱していた。
 当然文化祭の合唱でもA組は張り切っていた。抑揚のついた、よく練習された合唱だった。さすがに音楽の先生が担任のB組のほうが一枚上手だったが。(ちなみにD組は本来伴奏の必要な曲にピアノ演奏も用意できず、指揮者の子も途中でやめたりと破滅気味のままステージに立ってしまった)

 当時A組にいた奴らに話を聞くと、「確かにあのクラスはちょっと危なかった」「だけどM先生の力が強すぎて従うままだった」「あれはM先生のシュミ(特にハチマキ)」と、そこまで染まっている感じではなかったようだ。しかし一方で2年、3年と進級してもM先生はA組のままで、そこに吸い込まれた生徒のうち何人かはM先生に心酔していた。暢気だった奴なのに、A組になったとたん厳しい言葉を投げかけるようになっていったクラスメイトを何人か見た。

 M先生は、3年次には生徒会の顧問をも兼任していた。究極的には「A組による全校支配」、集団主義から全体主義への拡大化に映った。たとえ生徒会役員が他のクラスであってもA組的な行動を植えつけさせる。「生徒に徹底的に考えさせる」向きもあったが、根本は「俺(M先生)の言うとおりにしろ」なのは、明白だった。



滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

原 武史 / 講談社



 卒業して年月が経過し、そんなクラスもあったなあという程度だったが、先日70年代の統制的な学級運営を扱った「滝山コミューン1974」(原武史・著 講談社文庫)を読み、真っ先にA組のことを思い出した。
 その本では先生がクラスに欲しい子を選び、学級内で競わせ実践し、ついには生徒会の要職を占有し支配する流れを紹介していた(これではあまりにも言葉足らずであり、あの頃(70年~80年代)の集団主義教育に興味のある方はご一読されることをお勧めしたい)。

 小中学校という、単なる義務教育ではなく「団結」や「連帯」が優先されたあの頃の空気は、今では気味の悪いものだったと思わざるを得ない。
 そういう意味で、当時と違い私はA組に入らないでよかったと心底思っているが、在籍していたらそれなりにMコミューンで生き抜こうとしていたはずだ。
 あのハチマキを巻いて。
[PR]
by lidth-s-jay | 2015-07-18 15:44 | 中学校専用

 1987年(昭和62年)、中学2年生のクラスのことである。
 誰が言い出したのか(先生?生徒?)、朝の会、ショートホームルームで、歌をうたおうということになった。小学校、特に低学年では当たり前の光景なのだろうが、中学生になって歌をうたうというのは、少し奇抜のようにも感じる。
 しかも、歌の種類も音楽の授業で習うような合唱曲ではなく、ザ・ベストテンにでも登場しそうな歌謡曲が選ばれた。歌謡曲であって、J-POPではないしフォークでもニューミュージックでもない。書いてて少し恥ずかしくなる単語である。
 覚えているだけでも、こんな曲を選んで、歌った。学校の朝の会で。



南野陽子「話しかけたかった」

 南野陽子はスケバン刑事2のヒットもあって、人気の高いアイドルであったが、この曲はシングルとして出ていた割には印象は薄かった(当時も)。とはいえ、曲の感じがとても爽やかで、朝に歌うにはなかなかお似合いだった。1回だけ書くがナンノはそこそこ好きだった。映画「寒椿」で乳首を出したときは衝撃的だったがあまり実用的ではなかった。



TMネットワーク「Get Wild」

 アニメ「シティ・ハンター」OPソングとしてヒットしたこの曲だが、それまでTMがあまり売れていなかったので殆ど知らなかった(月刊歌謡曲の端っこのページにたまに載っていたが)。朝の会でみんなで歌うにはテンポが速めで大変だった。「イッヨーペインオアマイペーンオアサッバーズペーン」とかテキトウ。ゲッワッ!!



中山美穂「Catch Me」

 昨今、エコーズの辻仁成と別れて空港でブチ切れていたミポリンだが、私たちが中学生だった頃は毎度おさわがせしますとか夏体験物語とかで男の股間を直撃する言動を繰り返していた。それと朝の会の歌とは関係ないがセクシーな歌だった。メロディが少し難しくてこれまたみんなで歌うには厳しかった。


 これらの歌を生徒がB紙にマジックで歌詞を書き、黒板に掲示し、赤いラジカセからテープを流して歌っていた。
 その他の曲を歌ったのか覚えがなく(多分無いと思う)、中山美穂の歌までで中止になったが、普段聴く事も無い歌謡曲を歌っちゃうのは、悪くなかった。TMなんかはこれを機会にハマッたし。ハウンドドッグとかオメガトライブとかの曲のほうが(みんなで歌うには)合ってたと思うけれど、それだと平凡で面白みはないかもしれない。


 今の子たちがこんなことするかどうか分からないけど、もし朝の会で歌うのなら何を選ぶのだろうか。音楽の授業でも普通にいきものがかりとかファンモンとか歌ってそうなので、朝の会なら個人的にはゲスの極み乙女。「パラレルスペック」を推して了としたい。
[PR]
by lidth-s-jay | 2014-08-15 12:39 | 中学校専用

 「みかん」という言葉を聞いて、ご覧の方々は次にどんな言葉を浮かべるだろうか。
 色だったり味だったり、人によって似てたり違っていたり、と、様々な言葉が出てくるのだと思う。

 中学生の時通ってた学習塾で、まさに今と同じ質問が先生から出された。
 「お前ら、みかんって聞いてパッと浮かぶものってなんだ?」
 塾生全員が思い思いに言葉を並べていく。連想ゲームである。
c0004895_9424549.jpg

 「黄色(オレンジ)」「すっぱい」「丸い」「食べたい」という直感的な反応も多かった一方で「寒い」「コタツ」「ネコ」と、もうひとつ先の反応をした子もいた。瑠璃カケスは・・・多分前者のほうだったと思う。

 一通りでたあと先生の解説。
・「みかん」という言葉からどれだけの想像力が働くか。
・ひとつの言葉をもとに広い連想ができれば、国語の力が育まれる。
・たとえば「コタツ」などは、みかんのある情景を浮かべたという意味では、なかなかのもの。
など。
 過去の例で、「みかん」と聞いて「海」と答えた子がいたらしい。
 その子は、旅先で海辺を走る電車に乗ったところ、車窓からみかんの木が並んでいていたのが印象的で、海という言葉を思いついた、とのこと。独創的とまでは思わないが、「食べたい」とか言う食いしん坊よりは少し内なる情景が豊かなのだろうと、その時は妙に感心した。
 このあと、瑠璃カケスは家でも姉にこの連想ゲームをやってもらっていたが、チープな反応しか出来なくて「おらぁだめだぁ」なんて諦めてしまった。

 今だったら、みかんは「別れ」と答える。芥川龍之介の小説に、そんなようなものを連想させるシーンがあった(「レモン」だったら「ザ・テレビジョン」では情けないので「うなされるほどの高熱」と言っておきたい。「くりぃむれもん」とか以っての外である)。
 大人になってしまうと答え探しばっかりになって、面白みが薄れるのが残念。


 それでも、以前、映像作家の人が「風にも色があるんですよ」と、さらりと話してた時は、すごいな、と思った。
[PR]
by lidth-s-jay | 2012-10-07 09:37 | 中学校専用

ニッキョウソのセンセイ

 「ここに書くのも久しぶり」が恒例だ、なんていう間に、世間では発足したばかりの内閣の一大臣が在任期間5日という合宿並みの速さで辞任する騒ぎが起きた。「ニッキョウソは日本のガンだ」など、ニッキョウソを徹底批判する発言を続け、辞任した後もその発言、姿勢を撤回しようとしない。肯定的に言えば「貫いている」。インターネット上では彼を擁護する意見も少なからず見受けられる。個人的にはその意見の是非云々より「別にこんな時に言わなくても・・・」という気がするが、どうだろう。

 さて、槍玉に上がっているニッキョウソ。日本の教育をダメにしたとまで言われるこの集団・・・なんだそうだが、実は30ウン年生きてきて、ニッキョウソがどういうモノなのか、実はよく知らない。知らないし知ろうともしなかった。
 イメージとしては「赤い思想を持ったセンセイ達の集まり」「もう古い人」「あんまりセンセイとしての仕事をしない」というところか。数年前だが本の配達の仕事をしていた瑠璃カケスはニッキョウソのアジトにも出向いていたことがあった。古汚い建物の2階で、垢抜けない感じの男女2人が暇そうにしてた。金払いは今ひとつよくなかった。社民党のポスターが貼ってあった。



 昔は、ニッキョウソのセンセイは結構いた、らしい。しかし私瑠璃カケスが知っているニッキョウソのセンセイは、2人。うち1人は、よく覚えている。今から20年も前、中学1・2年、隣のクラスの担任だったミシマ先生だ。
 体育の先生だった。特別授業にならない授業をしていたわけでもなく、普通にバレーもサッカーも陸上もやっていた。クラスも異色という感じはなく、言われなければニッキョウソのセンセイだなんて分からなかった。ただ、体育にしては楽な授業だった。瑠璃カケスは運動音痴なので体育が嫌いだったがミシマ先生はわりかし好きだった。
 中学の養護教諭で校長よりも威張っていたトラバアという嫌なやつがいたが、ミシマ先生はそのトラバアとも果敢に口論していた。クソトラバアに立ち向かった先生なんてミシマ先生ぐらいじゃないだろうか。偶然にもミシマ先生とトラバアは同じ年度で学校を去ることになる。トラバアはもう死んでるかもしれない。
 2年生の時、春の学年合宿の際ダンスを取り仕切ったのがミシマ先生だったが、その時もちこんだYMOのライディーンは今でも忘れられない。ダンスでライディーンとくれば竹の子族だろう、と想起される方は相当中年だと思うが、まさにその通りで、ミシマ先生は中学生の我々に竹の子族ダンスを教え込んだ。他の先生方は反対しなかったのだろうか・・・今思えば、その辺がミシマ先生のニッキョウソ的な片鱗をうかがわせる部分だったのかもしれない。
 
 うちの担任だったヤン先生が、ミシマ先生はじめ同学年の先生たちとカラオケに行った時のことを「ミシマ先生は・・・上手いとは言えんが、元気だけはあるんだよな」と話していた。
 そのミシマ先生、離任式の際、挨拶もほどほどに「上手いとは言えない元気だけある」姿で歌い始めた。あれは歌ではなかった。遠吠えするサルのようだった。もちろん、何を歌っているか分からない。
 音程も無茶苦茶な、ミシマ先生の歌う姿に・・・斜めから見ていた私は、涙をこらえるのに必死だった。もうちょっと上手だったら、そんな寂寥感を抱く事もなかっただろう。
 在校中、車の追突事故に遭い負傷したミシマ先生だったが、今も元気にしているだろうか。もし今でも教職を続けられているとしたら、やはりまだニッキョウソに籍を置いているのだろうか。



 便利な世の中だから、ニッキョウソのことを知ろうと思えば簡単にキーワードを拾えるだろう。だけど先述のとおり特に知りたいとも思えないし、ミシマ先生のことを思い出すと、なんだか、あんまり悪い方向に想像したくない、というのもある。
 

 世の中に疎まれるのではなく「称えられる」センセイが、もっと増えてほしい。そうなれば、子供たちの未来も自ずと開けるんじゃないかなあ。
[PR]
by lidth-s-jay | 2008-10-01 21:32 | 中学校専用

 クラミ先生が復帰した1週間後ぐらいに、私は職員室を訪れて先生に会った。
 「先生、前期が終わるころ(9月末)にみんなにアンケートとったやつ、あれ見せてもらえませんか」とお願いした。
 これは、クラス全員にとった「前期は誰が一番頑張っていたと思うか」「後期の委員長は誰がいいか」というアンケートだった。クラミ先生がこのアンケートをどういう意図でとったかは分からないが、私にとってはとても気になるものだった。
 当然、本来は機密情報扱いとなるはずが、クラミ先生は二つ返事で背を向けて収納棚から藁半紙の束を出してくれた。「いいよ、持ってっても」・・・返してね、とも言われなかった。一礼したあと、私はそれを持ち帰って一枚一枚読んだ。

 前期頑張った人も、委員長として挙がっていた名前も、私が多かった。
 ちなみに前期私はクラスの風紀委員(のようなもの)だったが、何も特別なことはしていない。委員活動云々ではなくて、クラス行事には積極的で前向きだったのが、クラスの連中には何かプラスとしてうつったのかもしれない。それは、誇らしいことではあった。結局委員長ではなく、生徒会を選ぶことになったが、そのときはクラスのみんなも応援してくれていた。

 しかし、やがて文化祭の決め事などでクラス内の分裂が決定的となり、また受験期が近づくと同じ高校を目指す同士が固まるようになり、空回りする私を気にかけてくれる奴はほとんどいなかった。私も別に望んではいなかった・・・が、担任の先生ぐらいには叱咤激励、アドバイスをもらいたかった。もし私から話をすれば聞いてはくれるだろうし、何かの言葉をかけてくれたかもしれない。それができなかった、やらなかったのは私の稚拙さだろう。しかし、子供のままの私は、受身である自分を正当化し、声をかけてくれないクラミ先生を次第に恨むようになっていた。
 このアンケートをとって私が生徒会に進んでハイよかったね、そういう気持ちだったんだろうか。

 私立受験の直前、帰りの連絡会で少し私語を漏らしていたことに注意されたのを逆恨みしたのか、私は生活記録に今までの成り行きを徹底的に書きなぐった。

 『あの時何で生徒会の選挙なんかに出てしまったんだろうか、普通にクラスの何かの委員で3年生を終わらせたかった、みんなは期待してくれたけれど僕はもうやる気はゼロだった、
 ・・・なんで先生は止めてくれなかったのか。神経を疑う。信じられない。時間を返してくれ。もう受験も何もかもたくさんだ。はやく卒業したい。中学なんかまっぴらだ。それだけだ(要約)』
 
 文章としては3ページぐらいだったが、イチャモン甚だしい、しかし確実に先生を責め立てる内容だった。

 いつもはハンコかせいぜい1行2行の赤ペンしか添えないクラミ先生が、私に負けじと4ページに渡って返事を書いてくれた。
 
 『貴方がそういう気持ちになって苦しんでいることを理解してあげなかったのは私の責任です。ただ、本当に生徒会に入らなければよかったと思っているんですか?私はむしろ、出会った頃の貴方の明るさがどこに行ってしまったのか、それが気がかりでなりません。貴方がそんな思いつめるような人間だったとは予想だにしませんでした・・・いずれにしても、私が貴方に対してもっと気配りをすべきでした(要約)』

 そのあとも、呼び出されることもなかったし、加えて何か言い訳されるわけでもなかった。
 それから私はクラミ先生と話すことは殆ど無くなった。先生も、気まずさを引きずったまま、しかし時折授業中に私を指名して答えさせていた。記憶にあるのは最後の道徳で取り扱った「被部落差別」の話、だった。

 公立高校受験直前の3月13日、卒業式を迎えた。
 悪夢のような生徒会の活動も、振られたあとのまどろっこしい空気ともサヨナラできる、そんな解放された気持ちでいっぱいだった。
 そして、クラミ先生とも別れる時が来た。
 私は、親からカメラを借りていて、クラスの連中と写真を撮っていたが、式の前に、スーツを着込み、私たちと同じく胸元に花をつけたクラミ先生を呼び、「センセイ、写真撮らせて」と言った。
 ファインダーの向こうには、ピースサインを突き出して、ニヤニヤしているクラミ先生がいた。

 ・・・ちなみにこのカメラ、途中でフィルムの蓋が開いてしまい、全部パーになってしまった。


 *

 
 中学を卒業して2年経過し、高校でウタゴエ部の練習に行く途中に、なぜか校庭の通路でクラミ先生と出くわした。高校の近所に住んでいて寄ってみたのだ、という。
 髪を伸ばした私と、着崩れした格好をしていたクラミ先生だったが、ホンのちょっと前にも出会ったかのように、普通に話した。
 明らかに違うのは、クラミ先生の両手に、生まれたばかりの赤ちゃんが抱かれていたことだ。
 
 クラミ先生は私たちが卒業後、ほどなくして退職していた。教師だった頃の空回りした張り切り姿ではなく、やわらかさをまとったお母ちゃんの表情を浮かべていた。


 同窓会の類も出ていないので、それからは、先生とも15,6年会っていない。
 あの時生まれた赤ちゃんも、もう高校生ぐらいになっているはずである。
[PR]
by lidth-s-jay | 2007-03-25 18:56 | 中学校専用

 年が変わって平成元年(1989年)1月、ちょうど元号まで変わって慌しかったころ。
 新学期が始まったとたん、なんとクラミ先生は長期休むことになった。強面で何かにつけて容赦の無い副担任のフクイ先生が教壇に立っていた。特別怒られるっていうわけじゃないのだがもうその存在が怖くて、我々はおとなしくするほかなかった。
 クラミ先生は、産休だった。腹が出ていたようには見えなかったので、理由を聞いた時は驚いた。
 しかしまあ、3年生の担任だというのに家庭計画というか、そういうものを考えなかったのだろうか。
 担任はフクイ先生が1週間程度務めたのち、臨時でマチコ先生という外部からのオバサンが入ることになった。数学はアボウ先生という休養明けの先生が入ったが、とことん人気がなかった。私は別に嫌いじゃなかったが、確かに顔がヤバかった。

 どちらかというと私は、鼻につく喋り口調とかしつけにうるさかったマチコ先生に馴染めず、反抗期むき出しで顔をそむけていた。しかし、ある時点で心を切り替えて、わりと素直にマチコ先生の言葉を聞き入れるようになった。

 そして2月、クラミ先生は流産した、とフクイ先生が教えてくれた。そして10日ぐらい経過したのち、クラミ先生は再びクラスに戻ってきた。
 どういう気持ちだったのだろうか、そのときは子供を産むことをよく理解できなかった私は「ふーん」ぐらいにしか思っていなかった。クラミ先生も、久しぶりの教壇で「まあ、また主人と頑張って産もうと思います」と笑いながら言っていたが、本当は、いろいろ抱えるものがあったのかと思う。
 
 とはいえ、私たちの興味事は来月に控える高校受験にあった。また普段どおりの時間割、授業が流れていった。

 しかし、私は少し事情が違った。
 秋の後期生徒会執行部選挙で、私は生徒会長に選ばれた。名誉ある職であるが、その実は特別なこともせず、またそのことを執行部担当のキシロウ先生(A組)、また他のクラスの連中から批判され、半ば気持ち的に参っていた。思えば、いろんなやつに担ぎ込まれて、半ば強引に立候補させられた形だったが、その時も、そのあとも、クラミ先生は「いいんじゃないの」という傍観視を決めてかかっていた。全く頼りにならなかった。
 クラミ先生にしてみれば、「放っておいても君は楽天的だからなんとかなるでしょう」というスタンスで見ていた。それアンタじゃないかよお気楽なもんだ、と、頼ることのできない担任の下にいることを、本当に悔しがった。

 直前の高校入試模擬試験で、私はかなり成績を落としていた。おまけに3年のときから好きになった子に告白して見事に振られて、身から出た錆とはいえ、段々と自暴自棄気味になっていった。
 私立高校受験前の、2月最初のことである。
[PR]
by lidth-s-jay | 2007-03-24 07:54 | 中学校専用

 中学3年となった春、昭和63年(1988年)4月の始業式。
 どこから情報が漏れたのか、私は1・2年のとき散々付き合わされてもう勘弁してくれと思っていたヤン先生のクラスから外れること、恋しつつも敵だった愛憎のかたまり、アンディと同じクラスになること、それだけは分かっていた。
 そして、D組からE組へと移った。先生の名前を見る。あれ?知らない。誰だ。
 この春、市内の学校から転任してきたクラミ先生だった。

 当時31歳、結婚したばかりで、クラミというのは実は旧姓である
 小4の後半のガクト先生から中2のヤンまで4年半、男の先生で、そろそろ女の先生がいいなあと思っていたところだったので、まあ丁度よかった、とは思った。
 これでもかと言わんばかりの刈り上げショートで、太ってはいなかったが(痩せてもいなかった)顔がアンパンマンのように腫れていた。同世代以上の人からみたら愛嬌のある?可愛い?顔立ちなのだろうが、中学生だった私たちは「オバサンじゃねーか」という受け止め方をしていた。

 地元の国立大教育学部出身という、典型的な先生ルートをたどっていたクラミ先生は、やはり典型的な教師、だった。なんというか、ありがちな。
 あんまり冗談は通じない、まあそこそこ明るい、最初に作った学級通信は最初の1号だけ、生活記録を提出してもハンコひとつ押すだけ。女性らしさは、というと、カリアゲのおかげで何も見えてこない。そんな先生だった。
 教科担当は数学だった。これも特別すごい授業でも、とんでもなく下手糞な授業でもなかった。ひとつ褒めるとすれば、黒板の字が上手だった。読みやすい字。以前1年でとっとと辞めた社会のセツコ先生とはえらい違いである。あれは日本語じゃなかった。

 忍耐力もあまりなくて、授業中に暴言を吐いたボス気取りの馬鹿、タイヨウに「あなた、アタマおかしいんじゃないですか!?」とまで言い放った。さすがにそれはまずいだろと思った。のちにタイヨウは2年の時の担任だったカッパ先生と廊下で面談して落ち着いたようだった。

 
 クラミ先生は3年担任ということもあり、進路のことは比較的熱心に取り組んでいたようだったが、学級運営は放置気味で、クラスの委員長選考、文化祭の演劇で何をやるか、生徒会選挙への立候補者擁立までぜんぶ生徒に丸投げし、特別なアドバイスも指導もしなかった。介入の良し悪しは分からないが、私からみたら難しいことから逃げているようにも見えた。
 一度、廊下を歩いていたら、隣のD組担任のヤン先生に拉致されて「ちゃんとしろよ、お前んとこの担任は使えんのだからお前らがどうにかしないとダメだろ」とヘッドロックをかまされた。相変わらず鬱陶しいなヤンめ、と思ったものの、確かにクラミ先生は頼りなかった。
 クラスの仲は悪いしみんな勝手だし、このまま1年間終わっちゃうのかなあと思うと、げんなり来ていた。(続く)
[PR]
by lidth-s-jay | 2007-03-22 12:36 | 中学校専用

母は枯葉剤を浴びた

母は枯葉剤を浴びた―ダイオキシンの傷あと
中村 梧郎 / 岩波書店




 ベトナムのグェン・ドクさんが12月に結婚するという話を聞いた。シャムツインズと呼ばれる奇形双生児、ベトちゃん・ドクちゃんの弟のほうである。ドクちゃんももう25歳、ホーチミン市の病院に勤務しているという。兄のベトちゃんは、脳障害が深刻で寝たきりのままらしい。
 下半身がつながって生まれたという彼らが「一人ひとり」になったのは1988年(昭和63年)、今から18年前のことだ。分離手術によるものだが、あの頃私は手術が成功するとは思っておらず、どちらかが犠牲になるのでは・・・と考えていた。しかし、兄弟とも現在、生きている。
 
 シャムツインズ(シャムの双生児)については、ベトちゃんドクちゃんの存在を知ったあと、上記の本(私が見たのは新潮文庫。その後改訂されて岩波書店から出版された)を読んだ。中学1年の頃だ。
 クラスの誰かが図書室で借りてきたこの本は、カラー写真でシャムツインズを多く紹介していた。ベト・ドクのように体のどこかがくっついたまま生きている双子から、既に命はなく、つながったまま水溶液に入れられた子供たちの写真まで。
 いつの間にかクラスの大人数がこの本を読むようになっていた。写真が目的だったようで、それらを見るたび子供らしい残酷な言葉で怖さを表していた。とても褒められた言い方ではなかったが、実際ホルマリン漬けの標本の姿は直視できないものがあった。
 テレビでは、手術前のベト・ドクの姿をよく見た。確か手術は困難、と言われていた頃だったと思う。そう聞いていたものだから、手術で切り離すというニュースを知ったときは驚いたものだ。
 
 ベトナム戦争終結、統一から30年経過し、「ベトナム戦後」世代が大人となった現在では、シャムツインズの存在もあまり知られていないのではないか。本当は知らないほうがいいのかもしれないのだが、私が生まれてからもいろんな出来事があって、時代が流れているんだなあということと、流されてしまわないだろうか、という少しばかりの不安も感じたりする。やがてはあの9・11や、イラク、イスラエルの紛争も。
 それが「平穏な日々を取り戻した」、という意味なら、いいのだけれど。
[PR]
by lidth-s-jay | 2006-09-01 09:22 | 中学校専用

 学校の休みについて、現在の小中学校がどうなってるのか今ひとつ分からない。完全土日休日になっているのだろうか?地域差、私立ルールなど様々なれど、おそらく私が通学してた頃よりは休日は増えているはずだ。そのかわり一日の授業が多そうで、どっちもどっちだな、という気もする。
 私の場合小・中・高は「土曜半休、日曜休み」だった。土曜日の午後は中高では部活もあったが、勉強からの解放感のほうが大きかった。
 多くの方と同じように、日曜日よりも土曜日、土曜日よりも金曜日(の夕方以降)が楽しみ、という心持ちがあった。日曜日の夕方サザエさんのエンディングでユウウツになるのもまた同じ。本当に同じなのか少し怪しいが。

 なんとなく土曜日の話になりかけたところで、日曜日に限った「休みの過ごし方」について振り返ってみたい。

続きを読む・・・>>
[PR]
by lidth-s-jay | 2006-05-29 10:08 | 中学校専用