「ほっ」と。キャンペーン

<(1)(2)からの続き・・・>

 当初普通に過ごして終わるはずのナマモノ部・部活動の時間に異変が起きた。

 文化祭(9月)の出展をどうするか、我々ナマモノ部もそれなりに考えあぐねていた。
 化学部のような実験も思いつかず、地学部のようになぜか人一杯(どういうわけかうちの学校の地学部は部員が多かった)で文殊の知恵をかき集めることもできず、本当は別に出し物なんかよかったのだが、ここいらでいっちょ面白いネタでも・・・と真剣になって出した結論は、「シロアリレース」だった。

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 シロアリは、ボールペンで書いた線上を歩く。これはボールペンの成分にシロアリの出す「道しるべフェロモン」と似た物質が含まれていて、そこをシロアリが辿っていくからである(らしい)。
 これを利用して、B紙にコースをボールペン書きし、シロアリをのせて競わせる。
 このシロアリレースに、我々は「当選者にはアイスキャンディーを配布する」という触れ込みをつけた。9月になったばかりの夏日に、これは間違いなく当たるだろう。誰が言い出したかもう思い出せないが、部員は乗り気だった。

 副顧問のハヤノ先生が猛反対した。文化祭は我々ナマモノ部の研究発表の場ではないのか。しかもモノ(アイス)で客を釣るのは論外だ、何を考えてる、と。どう考えても正論であるが20代の先生にしては随分典型的な石頭な意見だった。
 発表なんか張り出しても誰も見に来ない、たとえ部活の主目的から外れても人を呼んで盛り上げることのほうを優先すべきだ、と、多分私が言った。プラナリアだってかわいいけどあいつらみみっちいし。なんでムキになるのか良く分からなかったが、結局生徒側の意見、アイスで客を釣るシロアリレースを催すことで、文化祭パンフにも載せた。
 それほど出席率がよくなかったはずのヤスエさん(3年・唯一の理系)が急に張り切りだして、準備から本番まで進められた。文化祭当日、レース自体を何度やったかは失念したが、懸賞アイス(ミルク棒)が目を引いたか、信じられないほどたくさんの客が来て、B紙の上を這いずり回るシロアリに一喜一憂していた。

 催しとしては、ナマモノ部の出展は成功した。
 しかし、それからハヤノ先生とはまともに会話できなくなってしまった。
 年の前半までプラナリア生態観察など、うまくやってきたつもりだったけれど、文化祭のことで溝を作ってしまったのかもしれない。
 ちなみにプラナリアは、シャーレの水の入れ替えを怠ったところから生育が悪くなり、強い生命力を誇っていた連中も、秋には息絶えてしまった。その少し前から我々3年生は、ゆっくりとナマモノ部から離れていった(私はウタゴエ部の大会を控えていたのでそっちに掛かり切りになってしまった)。



 翌年3月、卒業式のあと、2年生のクワヤマさんが僕ら卒業生に花束を用意してくれた。2年生よりも3年生のほうが部員も多くて、花束の用意も大変だっただろうに、立派な花束をいただいたのを覚えている。
 クワヤマさんはナマモノ部活動報告(学校年刊誌に掲載)で、「最初はどうなるかと思ったけど沢山の先輩が来てくれて楽しかった」というような内容を書いてくれていた。シロアリレースのことも書いてたと思うが。部員も同級生を中心に少し増えたようだった。
 卒業後少し経過して、JRの駅で子供を抱いたハヤノ先生と再会した。お互い急いでいたので大した会話はできなかった。
 「あの時は僕らも阿呆でした」と謝ることが、できたらよかったのにと後悔している。


 プラナリアは清く澄んだ水辺に棲息場所を限られながら、しかし身体が真っ二つに分かれてもそこから生命力を発揮する。
 学校裏には小川が残っていて、さらにナマモノ部も活動しているだろうか。
 もしそうなら、今度はプラナリア分裂タイムアタックとかで文化祭に出したらどうだろうかと、真剣に考えてみた。(おわり)
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by lidth-s-jay | 2012-05-20 20:41 | クラブ活動

<(1)からの続き・・・>

 5月、夏も近づく頃の放課後、私瑠璃カケス、そして7名はいたナマモノ部員が高校の裏手にある小川で、とある生物の採取に躍起になっていた。

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 プラナリア(ウズムシ)である。
 プラナリアはすごい。その再生能力には、本当に驚く。どれだけタテに横に刃物を入れても、復活する(切れた尻尾や頭が生えてくる)。
 目がマンガの登場人物のようにコミカルである。全体の形がチンコにしか見えない。
 綺麗な水辺に生息するらしいのだが、実際学校裏で見つかるとは思いだにしなかった。採取したプラナリアはシャーレに入れて保温庫で飼うことにした。



 遡って4月。
 ナカイ先輩も卒業して、進級した2年生2人だけのナマモノ部に、幽霊部員・瑠璃カケスはまた戻ってきた。
 「今度はウタゴエ部に行くのが面倒になってきた」「私立文系に受験を絞ったため、生物はただの履修科目となってストレスフリーになった」という理由はあった。ただし顧問のジータ先生は、3年も担任だった。私は好かれていたのか危険で目が離せなかったのか。

 そして、部員が増えた。私が同級生を3人勧誘した。勧誘もしていないのに全く知らない同級生の女子が2人入部した。2年生部員も1人新規で入部した。これで、3年生6人、2年生3人(男4人女5人)の、少数ながら「部活動」と言える集団が出来上がった。
 これには、元々の古参部員だった2年生の顔色が大きく変化した。瑠璃カケスが入った当初は全く話しかけてこなかったのに、部員が増えたら急にフレンドリーになってきた。
 また、ナマモノ部の副顧問だったハヤノ先生(助手)が産休から戻ってきて、我々の面倒を見てくれることになった(ジータ先生はもともと居るだけだった)。プラナリアを採りにいくのを勧めたのもハヤノ先生だった。

 全員の部活参加率は、相変わらずよくはなかったものの、私と同級生のシミちゃん、2年生のクワヤマさんは大抵生物室に入り浸るようになっていた。プラナリアの生育日誌をつける以外はたいした活動はしていなかったが、受験本番の手前、ほんの少しゆったりとした時間を、私たちは生物室で過ごしていた。(次回ラスト)
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by lidth-s-jay | 2012-05-20 17:36 | クラブ活動

 高校の部活動についてはこのブログでも紹介している通り、高校2年からウタゴエ部(コーラス)に入っていた。
 実は、ウタゴエ部以外にも私、瑠璃カケスが参加していた部活があった。全然衝撃的でもない事実。
 ナマモノ部。生物部である。



 2年の秋、ウタゴエ部のナカイ先輩(3年)に「ナマモノ部に入ります」と伝えて迎えられた。ナカイ先輩はナマモノ部の部長でもあったのだ。
 そもそもナマモノ部は2年の担任であるジータ先生が顧問だった。当然、理科授業の生物科目も担当。
 そして私は生物が大の苦手だった。当時一応国公立への進学も諦めていなかっただけに、なんとかしないと・・・的な気持ちから、まずはナマモノ部に入って興味を持って、そこからボトムアップを図ろう、と本気で考えていた。
 甘かった。生物準備室に入り浸っても、生物の成績は下がる一方だった。それどころか赤点ラインがくっきり見えていた(まあそこは担任だったから難を逃れたが)。

 部活動といえば、これまた何もしていない。部長のナカイ先輩ですら、単に遊びに来ているだけに見えた。他にも先輩がいたはずだが、全く顔を知らなかった。同学年はゼロ。1年生の後輩(・・・になるのか?)が2人。何もしていない。日曜も遠征とかで扱き使うウタゴエ部とは真逆な活動ぶりであった。
 なので、瑠璃カケスは、1週間も通うことなく見事な幽霊部員となった。ジータ先生からたまに声をかけられた気もするが、生物の成績がひどすぎて、生物準備室すら怖い存在になって、そのまま2年生は終わった。


 そして、3年の春。何を思ったか、瑠璃カケスはナマモノ部の活動を再開した。(続く)
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by lidth-s-jay | 2012-05-19 17:36 | クラブ活動

 大学のオケ(オーケストラ、管弦楽団)に入ろうと意を決し、説明会にも行った。練習見学にも行った。アンケートには「バイオリン希望」と書いた。
 そして、入部説明会にも行った。この時点でもう殆ど気持ちを固めている・・・つもりだった。だったのだが。
 入部希望の同志に馴染めない。
 まずは、その圧倒的な女子学生シェア。女だらけの環境など、高校のときのウタゴエ部で慣れているはずだったが、あのウタゴエ部が良くも悪くも「馴れ馴れしい」感じがあったのと対極的で、お互いに話をしようという気が全く起きない。加えて、高校までは田舎くさい感じが親和性を促進していたのに対し、この女子群はなんというかお嬢様系で、なにか主従の関係すら漂うのである。お嬢様と書いたが美人が多いという意味では決して無い。
 男子はというと、今の記憶であるが弦楽系では私を含めて3人ぐらいしかいなかったようだ。やや大人しい雰囲気ではあったが普通には話せたと思うので彼らが嫌だ、ということはなかった。しかしいわゆる「明るいバカ」も皆無で、息が詰まる感じがした。
 
 ともあれ、とりあえず体験入部となり、練習ルームで、はじめてバイオリンを持たせてもらった。肩の凝りそうなポーズで弓を弾いてみる。油の切れたドアが開く時のような、情けない音しかでない。それは仕方が無いかな、と思った。
 それよりも、この体験入部の際、4年生の先輩男女2人(後で分かったが団長とコンサートマスターだった)が、新歓コンパの話をしていたが、冗談ではあるだろうが「潰してやる」と言ってて、たったそれだけなのに私は完全に怖気づいてしまったのだ。今でこそ酒大好きな瑠璃カケスも、さすがに18歳当時は大酒も飲めず、無茶な酒は徹底的に回避したい気持ちでいっぱいだった。「オケにいたら、潰されるかもしれない・・・」誰に言うとも無く、そのごの練習でも一人でビビっていた。

 その後、はじめてオケの合同練習を見学した。顧問の先生がタクトを振るって、6月の定期演奏会で演奏されるであろう楽曲をやっていた。
 この時間が異様に長かった。まず、「このオーケストラは素人から見てもとてつもなく下手だ」ということに改めて気づかされた。原因は金管楽器系。実際、先生に何度も何度も止められて、豆腐屋のラッパでも間違えないフレーズを屁のようにすかしていた。弦楽器のほうは良し悪しが分からなかったが、そんなことよりも「チームとしてやっていけるのか」余計に不安に思った。
 時間の経過が遅くてだるかった練習も終わりとなって、ヤレヤレと思っていたところで、先生が「今度は新入団員の歓迎会ですね、楽しみにしています」と言ってたのでまた思い出した。そうだ酒から逃げないと・・・この日1日で、もう、オケに入部する気は無くなった。

 日が経たないまま、結局私は入る気が無かった筈の男ウタゴエ部に正式入部することになった。オール男で1年生部員が全員同じ学部という要素は、デカかったのだ。高校までの合唱経験もあって、入部は非常にスムーズにいった。男部も実際はそうとうキテる感じの先輩が多かったが、オケの上から目線的な雰囲気はないだけ、ストレスフリーだった。
 
 一方、オケの方は部室へ赴き、団長に入部取り消しを願い出た。即時OKが出たわけではなかったが結果は当方の申出を尊重して受理してもらった。ここまで書かなかったが、オケには、高校のウタゴエ部出身の先輩がいて(4年生、ビオラ所属、高校のウタゴエ部はソプラノ所属)こちらの慰留が強かった。私としても、その先輩を頼りにいろいろ話を聞いてもらっていたし、申し訳ないとは思っていた。その他にも、わずかながら残ってほしいと言ってくれる先輩もいて、勝手ながら「ああ、中には血の通った人もいるんだな」などと思った。

 そういうわけで、管楽器→合唱→弦楽器の音楽三段跳びプランは短命に終わった。とくべつ合唱が好きというわけでもなかったのにまた続けてしまったが、結局、音楽がどうとかというよりも「仲間(友達)がほしかった」という気持ちが強くて、新たなチャレンジを拒んでしまったことになる。
 
 入学式でヘンデルの「ハレルヤ」を演奏してたオケは、4年後の卒業式典でも同じ「ハレルヤ」を演奏していたが、入学時とは比べ物にならないほど滅茶苦茶下手糞になっていた。定期演奏会でも誰も知らないマイナーな作曲家の楽曲を引っぱり出してきたり、先述のコンサートマスターが演奏会当日になって急遽変更になったりと、迷走を極めた。
 それでもお構い無しにそのまま入部し、バイオリンでドレミを奏でることができていれば後悔することはなかっただろうか。今になっては、もう想像することもできないでいる。
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by lidth-s-jay | 2009-04-19 13:17 | クラブ活動

 今から17年前の1992年(平成4年)の4月、私、瑠璃カケスは大学生となった。
 大学時代なんてごく最近のことだった、などと思っているうちに、とんでもなく遠い過去になってしまっていた。なんせバブルの頃だ。あの頃はインターネットもケータイもなく(ポケベルも入学当初は誰も持っていなかった)、緑色の公衆電話でテレホンカード使って電話するのが当たり前という時代だった。今回は電話とかテレホンカードの話はしない。前やったような気もするし。
 
 ところで、大学の春、といえば、やりすぎじゃないかとも思う「サークルの勧誘」である。
 唐突ではあるが、今回はサークルのことを書こうと思う。

 *

 中学で吹奏楽部、高校で合唱部(このブログではウタゴエ部と呼んでいた)として、わりと音楽に親しんできた瑠璃カケスであるが、大学に入ってもサークル等でその音楽を続けるかどうか、やや迷いはあった。ゴルフ部なんかも考えていた。あれはなんだったんだろう。
 一方で、いくつかのサークルで勧誘を受けた。「飯をおごるから話を聞いてほしい」という人が結構いて、実際タダ飯を食った(学生食堂のランチである。最初から不味かった)。その後勧誘の電話もいくつかあったが、ヨット部とか絶対入らないところからだった。何で名前書いたんだろ。
 どちらにしろ、サークルを通してでもいいから、友達を作りたかった。もう孤独で孤独で、キャンパスの通路がサークル勧誘のみならず春の賑わいが際立つほど、居場所の無さを憂えた。迷ってる余裕はなかった。
 実は、入学式直後に勧誘を受けたのは男声合唱のサークルだった。最初は、「あ、まあいいか男だけのウタゴエでも」と思い、いろいろ考えたうえで、とりあえず練習を見学した・・・が、正直とても地味で(練習場所の教室も暗かった)、先輩とかもヤバそうで、これを4年間続けるのは・・・できれば止めとこう、そう思った。
 
 吹奏楽で管楽器、合唱で声楽、と来ていたので、本命は弦楽器、つまりオーケストラだった。管弦楽団。高校まではまず御目にかかれない、ある意味大学という広い世界の象徴のように、オケのことを考えていた僕は、自分の音楽的ステップアップも考えて、勧誘を受けていないオケの部室のドアを叩いた。入学から10日程度経った頃のことである。(続く)
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by lidth-s-jay | 2009-04-03 21:30 | クラブ活動

 ウタゴエ部で過ごしたことで、よかったこともいろいろあるのだが、今思うに一番よかった、と思ってるのは「受験勉強期が異常に短く感じた」ことである。
 つまり、3年の10月にコンクールが終わり、ここからまともな受験対策がはじまるのだが、私の場合センター試験と私立しか受けなかったので、本番まで4ヶ月程度で終わることができた。もちろん部活に通っている時も多少は勉強はしたが、あんまりにも適当すぎて勉強してるという感覚は無し、だった。
 もっとも、受験に失敗して浪人すればさらに1年、ということも考えられたが、幸いにして回避することができた。卒業間近の2月のことである。

 推薦で随分前から受験勉強を終わらせている連中と共に、私も再びウタゴエ部に通いはじめた。3月末の定期演奏会。これが本当に最後の舞台である。
 この頃になって、もっと早いうちに入部しておけばよかったと改めて思うようになっていた。
 理由は2つ。
 ひとつは、練習を重ねていればもっとスキルを磨くことができたかもしれない、ということ。
 もうひとつは、同級生の彼らと同じく、終わりの頃の達成感をより強く感じてみたかった、ということ。
 2年間なら2年分の、3年間なら3年分の経験と思い出。後悔ってほどではないけれど、3年続けていたら、なぁ・・・と、卒業近くになっても思い通りに歌えない時には、ぼんやり考えていた。

 定演ステージでは、昨年のコンクール選曲の際競合した2つの曲を演奏することになっていた。どちらも同じ曲集として、1ステージ4,5曲と一緒に歌った。
 コンクールで歌わなかったBのほうは、苦手な古典英語の詩だったこと、必要とされるハイレベルな演奏技術についていけなかったこともあり、曲の魅力であるスピード感はゼロ、もうむちゃくちゃな有様だった。
 Aのほうはというと、ピアノ伴奏で持っているような曲だったので、合唱本体の駄目さをカバーできた。また、Bに比べれば(ぱっと見で)難しくなく、2,3ヶ月の短期間でなんとか「それなり」に仕上がったような気にもなった。勘違いであるが。
 その他に新たに2ステージ。私は確か先述の2つと、「出るだけ・歌わず」の1ステージ、合計3ステージに参加した。

 無伴奏のB曲集を練習していて、またデモテープを聴いていると、「これはやりこんだらものすごく面白いんだろうなあ」って思った。無伴奏なので、最後まで声を出すところが、「歌い上げたぜ!!」みたいな気にもなれるんじゃないか、って。実際のステージでは「・・・ああ、やっと終わってくれた」というヘタレもいいところな結果だったけど。あと、コンクール選曲の際気になってた「高音のキンキンがなり声」も、見事に演じて見せた。まるで悲鳴だった。
 コンクールのほうのA曲集は・・・初夏を思わせるようなピアノの旋律に、ただただ聞き惚れるばかりだった。また、曲集の、コンクールで歌ったA以外の曲が素晴らしかった(・・・)。なんだよ他の曲のほうが絶対いいじゃんよ、って愚痴っていた覚えがある。

 練習期間中にピアノ伴奏が途中で交替するというハプニングもあった。最後までゴタゴタな部活だなあ、と少々憂いを感じた。



 1992年(平成4年)3月29日。市の文化会館での定期演奏会は、あっけなく終わった。
 コンクールの安堵感はなく、むしろ、先述のような「遣り残し」をフワフワと浮かべていた。これで終わっちゃうのかなあって。
 もっと真面目に部活出ていればよかった、
 大人ぶらずに言いたいこと言えばよかった、
 笑って怒って泣けばよかった・・・、
 もし全部叶えていたら相当怪しい人間ではあるが。
 
 それにしても、制服着てステージにあがって、ギリギリまで高校生だったんだなあ、と。
 高校生という立場を、ウタゴエ部は表に裏に支えてくれたんだと思っている。

 
 そんな感慨深さを持ちながらも、コンクール翌日の反省会(慰労会のようなもの)には、出席しなかった。静かな場所でボーっとしたいと思い、町から少し離れた公園で、春の日をゆっくり味わった。
 2日後にはもう、大学生として入学式に臨む。希望なんかよりも、少し寂しい気分で、その日を送った。


 ・・・


 高校を、ウタゴエ部を卒業してからも、暇をみつけては学校へ足を運び、後輩(って言ってもいいのだろうか)と話しながら、余韻に親しんでいた。もちろん、次第にその足も遠のいていった。
 同級生たちの殆どが同じ愛知・岐阜周辺に残っていて、OB会だのコンクール見学だので顔をあわせた。3バカテノールのナポは海外逃亡してしまい、しばらく行方不明。三水偏の身分だったヒロツグとは何度か会ったが、微妙に後ろ髪を伸ばしていて危険だった。女子の人々ともどこかしらで会った。口うるさいのは卒業してからも変わらずだった。
 やがて部活がらみの出会いもあったが、それもあっけなく終わった。大学も卒業して仕事を持つようになってからは、殆どの人に会うことは無くなり、ここ10年近くは誰とも会っていない。

 
 ところで序章+本編5章の計6回にも渡って書いてきた「ウタゴエ部」だが、タイトルの「学んだこと」って、何でつけたんだろう、と。
 学んだ、のかなあ・・・よく分からないけれど、このままにしておこうと思う。
 15年前の記憶、ということで。
 
2007年3月18日追記:
A曲:大岡信・作詩/木下牧子・作曲「混声合唱組曲・方舟」
B曲:三善晃・作編曲「混声合唱のための 黒人霊歌集」
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by lidth-s-jay | 2006-10-23 12:10 | クラブ活動

 3年生。ウタゴエ部にもまた新しく部員が入ってきた。殆ど女子である。普通なら部活に女子が多くなるのは(変態的に)喜ばしいはずなのだがウタゴエ部に関しては「来たれ!男のエナジー!!」であった。そのぐらい、男子部員が少ない。
 そもそも、1年の春から入部する男子は殆どいない。私は2年だったし、3バカテノールヒロツグナポも1年の夏が過ぎたあとの入部、と聞いている。テノールに比べてベース(低音)は割りと早くから入部している傾向にはあるようだが。
 結果的(コンクール前)には各学年3人、パート計10人そこそこはいたような覚えもあるが、テノールの2年はなぜかエキセントリックなうひょ太郎1人だけだった気がする。

 *

 春そうそう、コンクールに向けての自由曲選びが始まった。
 昨年はNHK、連盟と、別の曲を演奏したが、私たちの実力がついていかないのか、今年は1曲にしぼり、2大会とも同じ曲を演奏することになった。
 目標はNHK県突破、連盟コン全国再出場のリベンジ。
 そこで、部内の意見が2つに割れた。

 ひとつはピアノ伴奏を主体にし、大きな響きが強みの、いかにも合唱らしい曲。「4分の5」拍子という聴き慣れないリズムが特徴的である。以降こちらをAと呼ぶ。
 もうひとつは無伴奏のヴォーカリーズ(楽器のように歌う方法)の黒人霊歌で、音の高低幅が非常に広く、またスピード感あふれる曲。少ない人数でも聴かせることが出来る。こちらをBと呼ぶ。

 Aは比較的コンクールで不利な「伴奏つき」、Bは「音の高低幅」がネックであった。デモテープは、私はBしか聴かなかった。音楽としてのテクニカルな部分・・・楽譜に忠実に、そして魅力的な抑揚ができるか、私たちにできるのか・・・それらも両曲に通じる難しさではあった。
 「キンキン声を出さないと無理だ。喉がつぶれる」という理由で、3バカテノールは一致してBにNOを提示、Aを推した。同じ理由でソプラノも比較的Aを推す者が多く、また逆の理由でアルト・ベースはBを推した。
 若干、Aのほうが押し気味ではあった。
 問題は、顧問の先生がBを推し、Aに対しては強い拒絶反応を見せていたことである。一応、生徒の意見が尊重されるとはいえ、実際に合同指導から演奏指揮までは先生が行うわけで、強気に出ているA側と先生とは平行線を辿った。
 部員も含めて話し合いが続き、時には激しい一面もあり(失念)、例によって泣くやつ続出であった・・・結局は投票によって決着がつき、Aが選ばれることになった。この際、少し部内の歪みが残ってしまったように思う。

 このAという曲は先述の通り、大音響にふさわしい曲調、つまりベートーベンの第9にもあるような「大合唱曲」の様相を呈していた。なので、大人数いることが強みとなるはずだったが、残念ながらウタゴエ部は多くても60人いるかいないかぐらいの中規模編成であり、それだけでも迫力不足であった。
 また4分の5拍子という慣れない奏法に、最後まで戸惑った。歌ってる私達も、音符についていくのに必死だった。指揮と伴奏と演奏がチグハグで、完成には程遠い状態のまま、コンクールに向かわなければならなかった。

 当然、結果はひどいもので、NHK(8月)は昨年を下回る評価、10月の連盟コンもなんとか地区大会には出場したものの入賞すら逃した。特に私達3年生は傷心しきりであった。
 時は大学入試も間近、他の同級生は受験勉強にかかりっきりな頃に、3年生は夏休み以降も部活に参加してコンクールに臨んでいた。
 そこまでして挑んだ、最後の大会が、終わった。

 私は、なんとなくホッとした。
 解放された気分だった。あの曲選びの頃から、次第に重苦しくなる雰囲気を感じた半年からの解放。解散後、駅からバスに乗った時の居心地の良さはよく覚えている。ついでに言うなら家に帰った時テレビで「それいけ!ココロジー」がやってたのも。

 コンクール終了の翌日、隣市のホールで合同音楽会があり、疲労気味のウタゴエ部も参加した。最初は出るつもりのなかった私も、その時の安堵感のまま歌いたかった、ということもあってやっぱり出ることにした。
 悪い言い方をすれば「ふぬけた」雰囲気のままの演奏で、多分コンクールよりも遥かに落ちる内容だったのだろうが、久しぶりに歌うことの喜びのようなものを、感じていた。それ以上に客席の人の少なさに驚いたが。1500人ぐらい入るホールに100人もいなかったような・・・。


 最後の定期演奏会を残して、ひとまずウタゴエ部から離れた。
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by lidth-s-jay | 2006-10-22 13:30 | クラブ活動

 ウタゴエ部のことを書くにあたって、関連する各種イベントをいろいろ思い出してみた。性格上、他の部活動との比較は難しいが、例としてこれだけのものがある。

・コンクール(連盟主催、NHK)
・定期演奏会(年1回)
・地区の合同音楽会・練習会
・学校行事(文化祭、卒業生送別会など)

・夏の合宿

・部内懇親行事(遠足・クリスマス会など)

・・・公式・非公式から、真面目なものからくだけたものまで様々だが、長期休暇以外は総じて「日曜日に催される」ものが多かった。当時は平日+土曜日が学校で、おおよそ放課後は部活に充てられていたので、下手すると全く休みなく部活動行事に参加する時期も、あったというわけだ。そんな風に2年のとき同じクラスだったオカンが学級文集でそう書いていたから間違いない。・・・制服を着ているとはいえ、電車での出張行事はそこそこ楽しみでもあった。
 
 *

 年が明けたのちの一番大きな行事は、3月末にある定期演奏会だ。市のホールを借りてお客さんに来てもらっての演奏。マニアックな合唱曲からポピュラーな歌まで幅広く扱う(全4ステージ)。コンクールとは違った、割とリラックスした雰囲気で取り組めるのだが、何せ曲の数が多いから暗譜するだけでも大変である。加えて1,2年生が中心となるので、仕上がりはいいとは言えないが、先述の通りコンクールとは違うというだけでも、気持ちの面では楽だった。
 特に3月に入り、定期試験が終わると自習期間(実質的な春休み)となり、部活の時間も大幅に増える。ただ最初のうちは、卒業する3年生や、午前補講などもあって部活の参加もやや疎らであったので、パートごとの自主練習などが多かったように思う。そうなると、もともと少ない男連中にも適当具合に磨きがかかる。
 男声、の中でも私はテノール(上のほう)のパートだった。同学年(2年)には3人、1年に2人だったと思うが、そもそも自分ら3人は遊んでばかりだった。裏山で練習、とうそぶいて外に出かけ、ちょっと音あわせして、たまたまうまくいくと、「よし俺たちは完璧だ」と女がどうのこうのくっちゃべっていた(当時彼女無しは私だけだったが・・・)。一度それで合同練習に遅れて顰蹙をかったこともあった。あまりにも適当すぎて足を引っ張り、結局部活終了後に居残り練習とかしていた。つくづく情けない連中である(と、お互いを責め合っていた)。
 
 ギリギリまで不安な出来のまま、定演に突入。内容はさておき、卒業する3年生の最後のステージでもあり、在校生部員にとっても1年の総仕上げであり、終われば感極まって泣くやつ続出。私は・・・覚えがないのだが多分そこまでではなかったとは思う。演奏会終了後の撤収まで気が抜けなかった、というのもあるけれど。男連中でOB宅で夜通し打ち上げしてたのだけは覚えがある。初めての裏ビデオを見たのもこの時だった。

 そうして、2年春から入ったウタゴエ部の1年間が、終わった。
 中途入部でありながら、同じ時期に入部した1年生から「先輩」と呼ばれるのは、なんとも変な気分だったし、また同級生とはいえ、実質的に1年キャリアのある2年生(の雰囲気)についていくのも、大変だった。分からないことだらけのまま、ただひたすら練習に通った(たまにランバダ踊りで脱線した)1年だった。

 ふたたび桜の季節となった。
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by lidth-s-jay | 2006-10-21 14:39 | クラブ活動

 昨年冬以来の更新となった「ウタゴエ部~」だが、次にいつ書くことになるかと思うと、とっても怪しいので、今のうちに書き溜めしておくことにする。全部でどれだけになるんだろう。

 序章で触れたのだが、私が入っていたウタゴエ部は過去に実績を残していた。連盟主催全国コンクール大会4連続出場、NHK音楽コンクール東海北陸ブロック9年連続出場(10年か?よく知らん)など。そういう部活に限って何かしら規律が厳しいものだ。
 あくまで聞いた話だが、コンクール上位の常連校となると、会場への移動の際は夏でも全員マスク装着らしい。喉の保護のためなのだが、傍から見た一般の方は色々思うところもあるのではないか。私は嫌だ、そんな集団は。
 私の入っていたウタゴエ部も、そこまではいかなくとも、コンクールに出場する際の制服の身なりには、風紀委員のような厳しいチェックがあった。なぜかそういうことは窮屈には思わなかったけれど。
 もっとも、ハイレベルを望み、頑なな規律の集団というのは、先述のマスク団体に共通するような、異様な匂いを醸し出していた。そりゃそうだ、中庭でママママまーなんて発声練習してたり、帰りはいつも集団でたむろってたり、気がつくと商業ビルの最上階の椅子を占拠していたり。もちろん、表彰される度に持ち上げられることに対する校内同級生の妬み、もあったとは思うけど、いつの間にか私も違和感なくその渦に入っていた。この人が変な目で見るのも想像に難くない。

 そんな思いまでして団結意識が高まっていればよかったのだが、残念なことにウタゴエ部は個性派集団だったものだから、結構みんな身勝手だった。あんまり部活こねえくせに口だけうるさいとか、なんか仕切ってるのが自問自答しはじめたりとか、人の好き嫌いが激しかったりとか。ケンカするぐらい熱ければともかく、変に大人びていたこともあり、消化不良のまま、コンクール本選に臨むことが多かった。
 私が入部してからのコンクール結果は、燦々たるものだった。NHKコンクールも連盟コンクールも「連続出場」の記録が途切れた。まるで私が入ったが為に・・・とでも言わしめるようで、あんまりコンクール意識しねえよなんて吹いてはいても、やっぱり悔しいものはあった。もっと練習していれば、自分の弱点へのアドバイスを傾聴していれば・・・など、当時はあまり考えられなかった。

 ただ、コンクールで楽しかった思い出がひとつある。
 その「敗退した」コンクールの会場、2年のときだから鶴舞の名古屋市公会堂だったのだが、そこはステージ以外の三方を客席が囲んでいた。
 コンクールの演奏が終わり、リラックスした雰囲気の中で、どこからか一般的なコーラス曲を歌い始めた。「あの素晴らしい愛をもう一度」や「怪獣のバラード」など、学校の授業でもやりそうな曲ばかり。
 さきほどまで「競い合っていた」同士が、一緒になって歌った。緊張してできた作り笑顔とは違う、誰が見ても分かる「歌いたくてたまらない表情」。もしかしたらこういう一瞬を味わうことが、私にとっての最上の喜びだったのかもしれない。
 200人、300人の「歌を楽しむ人たち」による、一味違った大合唱。近くで誰かが「全国大会はもっと凄いんだぞ」しらねえよ空気読めよバカ。

 1年前までは「誰が合唱なんかやるか」って思っていたのが嘘のように、少しハメを外して歌う私の姿は、きっとアホみたいだったはずだ。そうさ俺が合唱やってるのさ、って。
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by lidth-s-jay | 2006-10-19 22:34 | クラブ活動

 音楽の成績が満足いくものではなかった為、修行を兼ねて高校2年の春から「ウタゴエ部」に入ろうと意を決した私、瑠璃カケスである。

 いろんな意味で、入部はスムーズだった。
 まず、中学の時吹奏楽部にいたことで、通常の楽譜なら難なく読めたこと。またこのウタゴエ部自体、男子加入数が相対的に少なく、男というだけで強い歓迎を受けること。加えて、当時3年からいなくなったとはいえ、姉が元在籍者であった為、特に先輩連に覚えてもらいやすかったこと。など。私自身も、「音楽を演じる」という好きな分野で、不自由を感じずに時間を過ごせるのは、実に気持ちのいいものだ、と思っていた。
 もっとも、あれほど入部を禁じていた姉に知れ渡った時は大変だった。「どうしてアンタは私の言うことを聞かないの!」こうなるから言いたくなかったのだけど、程なくバレてしまったのも想定の範囲内である。諦めて耐えているうち、やがて知ってる部員の話で盛り上がるようになった。

 合唱というのは、一人で歌うわけではない→みんなで歌う、という当たり前の根本を理解するのは、結構難しい。
 基本である「目立たない」も、分かっていても、なかなか体得できないものだ。例えば音程だが、音痴ではなくてもピッチ(同音階での音の高さ低さ)が違うと「目立つ」。集団で発する声の質と違う(喉声に近い)と「目立つ」。細かな拍子のズレでも当然「目立つ」。精巧な機械が奏でるぐらいの緻密さ、とまではいかなくても、カラオケで自由に歌うのとは、全く違うものが求められていた。
 最初はそれに悩まされた。2年の5月、地区の音楽会に参加した際、私は楽しげに覚えたてのディズニーソングを歌った。ところが、どこからか、私の声が目立っているという話を聞いた。いわば「邪魔な声」である。
 なんだよ直接言えよ!!と思ったと同時に、入部してからの約1ヶ月、何の気なしに歌っていた自分の、足りない部分を見事に痛感し、やる気が失せた・・・が、「頑張れば何とかなる」「あんまり気にするな」という励ましを、素直に受け取り、次の日からは早くも立ち直って音楽室に足を運んでいた。

 9月最初に催された文化祭、ウタゴエ部も何曲かの歌を披露することになった。
 その中の1曲で、私はソロ(独唱)のパートをもらった。厳密にはもう一人女声との2人で歌うのだが、どちらにしろ他の人は歌わないのだからソロと言っていいだろう。
 校内の催し、というくだけたお祭りの1シーンだったはずなのに、何度も練習した。させられた。
 自分の声と言うのは、耳のメカニズムか何かのせいで、自分で聞くのと他人が聞くのとでは大きく違う(マイクを通したり録音してみるとハッキリ分かる)。 なので、先輩に指摘されても何が悪いのか、どうしたら克服できるのか掴むのは簡単ではなかった・・・ので、ひたすら歌った。そのうち、何かしら勘がつかめたのか、「これは聴いてても気分がいい」と言ってくれた。最後まで自分は分からなかったけれど。

 確か、「夏は来ぬ」(佐々木信綱作詞・小山作之助作曲)だった。
  
 さみだれの 注ぐ山田に
 早乙女が 裳裾(もすそ)濡らして
 玉苗植うる 夏は来ぬ


 久しぶりに「一人だけで歌った」のに、半年前とは歌い方とか、変わっていたっていう実感はあった。口の開け方とかダッチワイフみたいで、今となってはもう恥ずかしくてありゃしないんだが。
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by lidth-s-jay | 2006-10-18 00:38 | クラブ活動