「ほっ」と。キャンペーン

ウォッカ盗み飲み

 高校3年の時だったと思う。ビールは苦いけど、酎ハイならンマンマ♪と飲める、それぐらいの年齢にはなっていた。まだ酒の良さなんて分からなかった頃だ。

 受験シーズン真っただ中の秋深き夜、何だかんだいって受験勉強なんてものをやっていて、家族の誰よりも寝るのが遅くなっていた。もっともたまに深夜番組のお色気狙いで遅く起きているというのもあるが(これについては後日)、確かに目標を高めに設定してしまった以上、本人の意思に関係なく赤本やら旺文社の問題集やらをノートに解く日々が続いていた。

 当然、疲れる。あーあダルいなあやっとれんわ実際とか思う。息抜きに・・・しかし食べるものもない。戸棚を見ても、海苔とかくだらないものしかない。カップめんぐらい無いのかよ、と思うのは当然ではなかろうか。違うか。すみません。
  
 そして結局、ガスコンロの下にある「アルコールコーナー」に辿りつく。味醂ならともかく、なぜここに日本酒があるのか意味不明である。意味は分かっているが、家庭内にキッチンドランカーがいること意外は分からない。
 まあいいや、飲むか、と、コップに入れて飲む。あんまり美味くない。しかも酔わない。面白くない。あ、そもそも酔うってどういう気分だ?などと疑問に思いつつ、再び部屋にもどり、下半身を弄りつつ勉強を再開していた。

 秋も遠ざかったある日、いつものように「食うものないか、飲むものないか」とさがしていると、アルコールコーナーではない場所に酒をみつけた。その名はロシア名物ウォッカ(アルコール40~60度)。日本酒と違い、青いラベルに記された物々しい文字と、角ばった瓶が印象的だった。
 へそくりのように隠してあったのだろうが、素人なら簡単にちょろまかせる場所だ。ウォッカがアルコールの高い酒ということ自体は知っていた。だから何だ、じゃあ挑戦してやるよ、いや挑戦じゃなく興味本位、ただそれだけでコップに注いで一気にグイッといった。
 
 3分も経たぬ間に、薔薇色の世界となった。何これ。ふわふわふわわわ~。今までのストレスやら煩悩が抜ける感じ。こりゃいい飲みモンだてやんでぇワハハ。やーめたやめた寝ちゃえ受験バンザーイ♪♪そして強制就寝。

 朝起きる1時間ぐらい前だろうか、急に気持ち悪くなった・・・ああ、これが悪酔いってやつか。なんか胃がデロデロするウゲ・・・しかし持ちこたえた。なんとか。
 
 その後は少し酒に懲りたのか、酒の場所を探さなくなり、高校の部活打ち上げの時までは酒断ちした。

 今でこそ食事に酒抜きなんて考えられないなんて思っている私だが、さすがにハタチ前の頃は酒の愉しみを味わうには早すぎた、というところか。

 お酒は二十歳になってから、というのは、健康上の理由よりも、飲む愉しさを諭すスローガンではないかと思えてくる。
 ・・・と書きながら日本酒を飲んでいるが、なんて不味いんだ。醸造アルコールなんか入れるなよ砂糖でも入ってんじゃねーのか?日本酒だけはちゃんとした蔵元で買うべきだ、と本気で思う。
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by lidth-s-jay | 2005-12-05 15:28 | 高校専用

 新しくカテゴリ「コドモのココロ」を設けました。名前をどうしようかと思ったのですが、これからどんな風になるか分からないので暫定です。
 おそらくは今回のタイトルのような内容を扱うと思います。

                


 1982年(昭和57年)、小学3年の頃だったか、住んでいる家の近くの遊休地に、新しい家を建てる、と親から聞いた。
 当時住んでいた家は、祖父母の時代からあった木造の老朽化したもので、雨漏りも多く、トイレも部屋の外に突き出た、暗い場所にあって、夜行くのがすごく怖かった。特に大きいほうは灯りも無く、いわゆるボットンなので、落ちる可能性すらあった。他はそんなに家に不満があるわけではなかったけれど、あのトイレだけは嫌だった。
 なので、新しい家に住むって聞かされた時はそれなりに喜んだ。

 どうやら大きな家を建てるらしい。メーカーの建売住宅ではない、大工や左官屋にお願いしての、なにか拘りを感じるような家。
 どんな家であろうと、私が願っていたのは「2階のある家」だった。階段に憧れた。見晴らしに憧れた(周りは水田しかなかったので見晴らしが変わるわけではないが)。事実、「中二階を作る」という話もあった。
 1983年、家作りが始まって以来、「どこに2階に行く階段ができるかな」と、作っている最中も中をのぞいてはその場所を探していた。
 しかし、結局は平屋建てに終わった。親に聞いても「そんなものいらない」で終わってしまった。わりとすぐ諦めたので、期待していた割に諦めは早かったと思う。

 *

 確か4000万だかそのぐらいの家だったと思う。建売の当時価格よりもはるかに高い。耐久性は建売よりはいいだろうが、子供の私にはどうでもよく、むしろ「なんで家にそんなお金つかうの?」という疑問が残った。
 
 建設が佳境に入った1983年暮れぐらいから、親同士の喧嘩が絶えなくなった。理由は分からなかったが、頻繁に信用金庫の営業が出入りしていて、その日は大抵喧嘩となった。資金繰りのことだろうか、と今になって思う。
 だんだん家のこと以外でも喧嘩が目に見えて増えていた。当時、姉は夜塾に通うようになっていたので、その喧嘩を目の当たりにするのは私だけ。

 「やめてよ」のひとことが言えなかった。多分言っても止めないだろうとも思っていた。
 
 毎日が嫌で嫌で仕方が無かった。営業の人にも殺意を抱いた。お前が来るから喧嘩になるんだよとか。小学生がマイホームで憂鬱になるなんて、バカバカし過ぎるけど、本当にそうだった。
 一度、母親に「なんであんなに喧嘩するの?」ときいたら、「ストレスを貯めないためよ」って言われたけれど、じゃあボクのストレスはどうなるの?という気持ちだけが残って、悔しかった。

 *
 
 1984年5月、普通なら数ヶ月で終わりそうな家造りが、父親のこだわりかなんなのか、1年以上経過して、ようやく新居が完成した。生活の拠点が移ってからは、親の喧嘩は減っていった。
 しかし、今度は雪ダルマのように膨れ上がった住宅ローンが残った。この返済には20年近くかかると聞いて愕然とした。
 そして初めて思った。
 「何で家なんか建てたんだよ・・・」

 新居に移ってから父親は家計の節約にシフトした。それはつまり、家族サービスの縮小を意味した。家族で外食や旅行、という、今までの楽しみは消えた。小遣いが少なかったり、クリスマスのプレゼントがなかったのはそれほど悔やむことでもない。ただ、「家族で楽しむ」ことが、本当に無くなって行くのが分かった。
 全てが新居のせいだとは思わない(というより分からない)。ただ、明らかに昔のボロい家に住んでいた頃とは、父も母も「つまらない」人間に変わっていた。
 
 10年後、大学の就職活動で、本屋と平行して「住宅産業」を廻っていた私だったが、無意識に家についての思いがあって、旭化成やパナホームの面接に行っていたのかもしれない。

 *
 
 結婚して、貯金もできて金に余裕があった頃、妻が「住宅展示場行って見ない?買うわけじゃないけど、なんか楽しそうじゃん」とよく言ってた。
 アンパンマンショーが楽しいんだろとか思いつつ、確かに家を見てみるのも面白いかな、とは私も思っていた・・・が、結局一度も行くことはなかった。私は「一生移動民族でいいよ、2DK暮らしで。子供もいないしさぁ」といつも笑って返していた。

 家が財産、なんてのは考えられなくなっている。あんなもん壊れたらおしまいだよ、住めりゃいいんだよ、と思う。それに・・・家で家族の楽しさを蒸発させたくないし。


 実家の旧自宅はまだ残っていて、祖父母が住んでいる。新居のローンも完済したと、数年前に聞いた。20年経過して、確かにもはや新居ではなく、ひとつの風格ある城のようになっていた。できた当時は「ウンコでできた家」などと近所のバカ兄貴が揶揄していたが。
 こんなもんに財を投げ捨てる人生なんてまっぴらだ。金だけじゃなく、子供の楽しい思い出まで捨てられるんだから。


 そういう私は今この年にして寮暮らし、妻が一軒家で一人住まいという、まあそれもどうかなという生活をしているわけで。
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by lidth-s-jay | 2005-12-01 04:33 | コドモのココロ