「ほっ」と。キャンペーン

 アイドルに夢中になる子供は、昔もいた。
 今のアイドル好きな人の程度がどれほどかよく分からないが、たとえばコンサートに行くとかグッズを集めるとかは今昔同じなのだろうか。現在のアイドルトレンドを書くにはモノを知らなさ過ぎるが、昔のことなら少しは思い出せる。
 1984年(昭和59年)春の話をしよう。

 *

 この時期は、ちょうどトップアイドルの転換期で、特に男性アイドルとして人気赤丸急上昇していたのは「チェッカーズ」だった。藤井フミヤとその他大勢がちっちゃな頃から悪がきで15で不良と呼ばれたよとか歌う、あのチェッカーズである。それまでのたのきん、シブガキ隊の人気との比較は難しいものの感触としては相当熱狂的だった。
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 そして、このころ学校では、カンペンケース(金属製の筆箱)に貼り付けるステッカーが流行っていた。そのステッカーは、彼らの写真であるならともかく、「チェッカーズ命」とか「フミヤ命」などと、文字が書かれているだけのものも随分あった(のに結構売れまくっていた)。ステッカーに隠れてしまったスヌーピーやバイキンくんが哀れである。
 学校指定の文具購買店では、ステッカーを買い漁る子が絶えなかった。

 しかし、女子があまりにもチェッカーズかっこいいとか黄色い声で熱を上げてるのは、男子としても面白くなかった。
 ある日、氾濫するステッカーのデコ筆箱に目をつけて、男子が学級会で「あれは学校に不必要なものだ」という規制の動議を提出した。
 女子は当然「そのぐらいいいじゃない」と反発したが、学校という場所ゆえ、言い分としてはやっかみ男子側が優勢だった。私瑠璃カケスも「あんなもの、何の栄養にもならない(同じ30円で麦チョコ買ったほうがマシ)」という詭弁すら堂々と言ってのけた。
 結局、「学校に持ってくるカンペンへのステッカー貼りは禁止」という判断で決着した。
 もっともこれは我が組だけの判断なので、他の組は規制などなかったかもしれない(往々にしてそういうことがある。ゲームウォッチの持ち込みも、クラスによってまちまちだったことがあった)。

 なお、これはステッカーだけの話で、下敷きなど他の文具に対しては規制はされなかった。ステッカーほどの無駄度が低かったからである。
 しかし男子はそれまた面白くなく、チェッカーズグッズを持った女子を見つけては冷やかしを続けていた。自分たちの野暮ったさを棚に上げて冷やかしたところで結局自分たちの価値を下けるだけなのに、男たちは一体何がしたかったのだろう。

 *

 チェッカーズは我々の小学校高学年時代、84年~85年が一番の人気絶頂期だったと思う。92年のNHK紅白歌合戦で解散したが、親衛隊のキンキン声は全く変わっていなかった。

・・・という時代から数十年経過して、なんとあの藤井フミヤさんも今年(2012年)で50歳になるらしく、つい最近、写真を見たら、
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なんというか藤井フミヤというより藤子不二雄Aという感じだった(富永一朗も入ってる)。
 これをかつてのフミヤ命な女子が見たら卒倒するだろうなあ。
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# by lidth-s-jay | 2012-06-05 19:35 | 流行

<(1)(2)からの続き・・・>

 当初普通に過ごして終わるはずのナマモノ部・部活動の時間に異変が起きた。

 文化祭(9月)の出展をどうするか、我々ナマモノ部もそれなりに考えあぐねていた。
 化学部のような実験も思いつかず、地学部のようになぜか人一杯(どういうわけかうちの学校の地学部は部員が多かった)で文殊の知恵をかき集めることもできず、本当は別に出し物なんかよかったのだが、ここいらでいっちょ面白いネタでも・・・と真剣になって出した結論は、「シロアリレース」だった。

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 シロアリは、ボールペンで書いた線上を歩く。これはボールペンの成分にシロアリの出す「道しるべフェロモン」と似た物質が含まれていて、そこをシロアリが辿っていくからである(らしい)。
 これを利用して、B紙にコースをボールペン書きし、シロアリをのせて競わせる。
 このシロアリレースに、我々は「当選者にはアイスキャンディーを配布する」という触れ込みをつけた。9月になったばかりの夏日に、これは間違いなく当たるだろう。誰が言い出したかもう思い出せないが、部員は乗り気だった。

 副顧問のハヤノ先生が猛反対した。文化祭は我々ナマモノ部の研究発表の場ではないのか。しかもモノ(アイス)で客を釣るのは論外だ、何を考えてる、と。どう考えても正論であるが20代の先生にしては随分典型的な石頭な意見だった。
 発表なんか張り出しても誰も見に来ない、たとえ部活の主目的から外れても人を呼んで盛り上げることのほうを優先すべきだ、と、多分私が言った。プラナリアだってかわいいけどあいつらみみっちいし。なんでムキになるのか良く分からなかったが、結局生徒側の意見、アイスで客を釣るシロアリレースを催すことで、文化祭パンフにも載せた。
 それほど出席率がよくなかったはずのヤスエさん(3年・唯一の理系)が急に張り切りだして、準備から本番まで進められた。文化祭当日、レース自体を何度やったかは失念したが、懸賞アイス(ミルク棒)が目を引いたか、信じられないほどたくさんの客が来て、B紙の上を這いずり回るシロアリに一喜一憂していた。

 催しとしては、ナマモノ部の出展は成功した。
 しかし、それからハヤノ先生とはまともに会話できなくなってしまった。
 年の前半までプラナリア生態観察など、うまくやってきたつもりだったけれど、文化祭のことで溝を作ってしまったのかもしれない。
 ちなみにプラナリアは、シャーレの水の入れ替えを怠ったところから生育が悪くなり、強い生命力を誇っていた連中も、秋には息絶えてしまった。その少し前から我々3年生は、ゆっくりとナマモノ部から離れていった(私はウタゴエ部の大会を控えていたのでそっちに掛かり切りになってしまった)。



 翌年3月、卒業式のあと、2年生のクワヤマさんが僕ら卒業生に花束を用意してくれた。2年生よりも3年生のほうが部員も多くて、花束の用意も大変だっただろうに、立派な花束をいただいたのを覚えている。
 クワヤマさんはナマモノ部活動報告(学校年刊誌に掲載)で、「最初はどうなるかと思ったけど沢山の先輩が来てくれて楽しかった」というような内容を書いてくれていた。シロアリレースのことも書いてたと思うが。部員も同級生を中心に少し増えたようだった。
 卒業後少し経過して、JRの駅で子供を抱いたハヤノ先生と再会した。お互い急いでいたので大した会話はできなかった。
 「あの時は僕らも阿呆でした」と謝ることが、できたらよかったのにと後悔している。


 プラナリアは清く澄んだ水辺に棲息場所を限られながら、しかし身体が真っ二つに分かれてもそこから生命力を発揮する。
 学校裏には小川が残っていて、さらにナマモノ部も活動しているだろうか。
 もしそうなら、今度はプラナリア分裂タイムアタックとかで文化祭に出したらどうだろうかと、真剣に考えてみた。(おわり)
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# by lidth-s-jay | 2012-05-20 20:41 | クラブ活動

<(1)からの続き・・・>

 5月、夏も近づく頃の放課後、私瑠璃カケス、そして7名はいたナマモノ部員が高校の裏手にある小川で、とある生物の採取に躍起になっていた。

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 プラナリア(ウズムシ)である。
 プラナリアはすごい。その再生能力には、本当に驚く。どれだけタテに横に刃物を入れても、復活する(切れた尻尾や頭が生えてくる)。
 目がマンガの登場人物のようにコミカルである。全体の形がチンコにしか見えない。
 綺麗な水辺に生息するらしいのだが、実際学校裏で見つかるとは思いだにしなかった。採取したプラナリアはシャーレに入れて保温庫で飼うことにした。



 遡って4月。
 ナカイ先輩も卒業して、進級した2年生2人だけのナマモノ部に、幽霊部員・瑠璃カケスはまた戻ってきた。
 「今度はウタゴエ部に行くのが面倒になってきた」「私立文系に受験を絞ったため、生物はただの履修科目となってストレスフリーになった」という理由はあった。ただし顧問のジータ先生は、3年も担任だった。私は好かれていたのか危険で目が離せなかったのか。

 そして、部員が増えた。私が同級生を3人勧誘した。勧誘もしていないのに全く知らない同級生の女子が2人入部した。2年生部員も1人新規で入部した。これで、3年生6人、2年生3人(男4人女5人)の、少数ながら「部活動」と言える集団が出来上がった。
 これには、元々の古参部員だった2年生の顔色が大きく変化した。瑠璃カケスが入った当初は全く話しかけてこなかったのに、部員が増えたら急にフレンドリーになってきた。
 また、ナマモノ部の副顧問だったハヤノ先生(助手)が産休から戻ってきて、我々の面倒を見てくれることになった(ジータ先生はもともと居るだけだった)。プラナリアを採りにいくのを勧めたのもハヤノ先生だった。

 全員の部活参加率は、相変わらずよくはなかったものの、私と同級生のシミちゃん、2年生のクワヤマさんは大抵生物室に入り浸るようになっていた。プラナリアの生育日誌をつける以外はたいした活動はしていなかったが、受験本番の手前、ほんの少しゆったりとした時間を、私たちは生物室で過ごしていた。(次回ラスト)
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# by lidth-s-jay | 2012-05-20 17:36 | クラブ活動

 高校の部活動についてはこのブログでも紹介している通り、高校2年からウタゴエ部(コーラス)に入っていた。
 実は、ウタゴエ部以外にも私、瑠璃カケスが参加していた部活があった。全然衝撃的でもない事実。
 ナマモノ部。生物部である。



 2年の秋、ウタゴエ部のナカイ先輩(3年)に「ナマモノ部に入ります」と伝えて迎えられた。ナカイ先輩はナマモノ部の部長でもあったのだ。
 そもそもナマモノ部は2年の担任であるジータ先生が顧問だった。当然、理科授業の生物科目も担当。
 そして私は生物が大の苦手だった。当時一応国公立への進学も諦めていなかっただけに、なんとかしないと・・・的な気持ちから、まずはナマモノ部に入って興味を持って、そこからボトムアップを図ろう、と本気で考えていた。
 甘かった。生物準備室に入り浸っても、生物の成績は下がる一方だった。それどころか赤点ラインがくっきり見えていた(まあそこは担任だったから難を逃れたが)。

 部活動といえば、これまた何もしていない。部長のナカイ先輩ですら、単に遊びに来ているだけに見えた。他にも先輩がいたはずだが、全く顔を知らなかった。同学年はゼロ。1年生の後輩(・・・になるのか?)が2人。何もしていない。日曜も遠征とかで扱き使うウタゴエ部とは真逆な活動ぶりであった。
 なので、瑠璃カケスは、1週間も通うことなく見事な幽霊部員となった。ジータ先生からたまに声をかけられた気もするが、生物の成績がひどすぎて、生物準備室すら怖い存在になって、そのまま2年生は終わった。


 そして、3年の春。何を思ったか、瑠璃カケスはナマモノ部の活動を再開した。(続く)
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# by lidth-s-jay | 2012-05-19 17:36 | クラブ活動

Shinkansenも修行の場

 東京に行きたい
 新幹線に乗りたい
 それだけのために、1回に往復2万円近い旅費(自己負担)を払って就職活動をしていたことがある。東京の書店、1社に「企業説明会」「人事部訪問」「筆記試験」「1次面接」を受けに行った。全部、日帰り。結局最終面接の案内前に他社の内定が出て辞退することになり、多くの意味で徒労の多かった就職活動だったが、「でも新幹線乗れたし」と、あまり後悔することはなかった。きっとその頃は、就職活動期とはいえ余裕があったのだろう。


 2回目の人事部訪問で新幹線を利用した際、こんなことがあった。5月中旬のことである。

 名古屋駅から乗車し、席に座ってしばらく、僕はるるぶのガイドブックで地図を見ていた(訪問先は確か東京駅~銀座付近だったのでその辺を見ていたと思う)。
 すると、隣の席にいた、50代過ぎの女性が話しかけてきた。「東京へは旅行ですか?」
 いや、就職活動で、と、瑠璃カケス。あと二言三言で会話も途切れるのかと思ったが、女性はズンズン話しかけてきた。なんだこのオバサン。身なりはキチンとしていて、参観日に来る時のうちの母ちゃんみたいな格好。どちらかというとザマス系だが、嫌味な感じは、あまりしなかった。ただ、自分は神戸からやってきた、息子は日産自動車にいる、などなど、それ聞いてどうしたらいいのさと思う話を続けられた。
 「ところで今日の新聞読みました?」と唐突に聞かれ、「??」となっていると、朝日だか日経だかの真ん中ら辺の記事を出して見せてくれた(仮に新聞を読んでいたとしても絶対読み飛ばしているページだ)。内容は第2次世界大戦後のドイツの4カ国分割統治について。チャーチルとかドゴールの話が出た。何か質問されて、全然分からなかったので「勢いだからじゃないですか(適当)」と答えたら「違う違うそんなものじゃないんですよ」と全面的に否定の上、持論を展開された。俺何やってんだろう・・・。
 
 豊橋ぐらいから、ずーっとこの調子で話しかけられ、熱海ぐらいを通過したところで「ところでこんな本読んでるんです」と、A5サイズの本を出してきた。タイトルは「知の技法」(東京大学出版会)。東大教養学部の演習テキストなのだが、当時一般書籍としても話題になっていた本(僕は知らなかった)だった。女性はこの本についても、また詳しく説明しはじめた。

 この押しの強さ、確固たる自信、妙なインテリ・・・学者なのかどっかの会社のえらいさんなのかただの市民活動家なのか。東京に近づいた頃になって「私、最近退職して、今日挨拶しに行くんですよ」と教えてくれた。また出してくれた資料を見ると、外国(ドイツかスペイン)の在日商工会議所だった。よく分からないけど、すごいなと思った。本当によく分からないけど。

 東京駅に着き、女性と僕は別れの挨拶をした。握手をしながら「就職活動がうまくいくよう、健闘を祈ります」と言われた。
 結局この間、お互い名前も名乗らず、また連絡しますという話もなく、勿論これっきりの出会いだった。会社訪問前にかなり疲れてしまったが、今思えばアレで緊張もどこかに飛んでいったような気がする。
 毎回、あんな人の相手してたら「いやよく分からないんで」と寝たふりを決め込んでいたはずだが、それこそこんな出来事はこれっきりだった。なんの準備もなく相手されたからこちらも面食らったが、心構えさえあったら、色々聞いていたかもしれない。堅い話だけじゃなくて、音楽や外国の話など(そして今だったら熟女に関するFAQをギリギリまで聞くかもしれない。オバサン大好き)。
 

 先述の「知の技法」は、訪問の帰りに購入して、10ページぐらい頑張って読んだ。語るには何もかもが不足している。もう少しあの女性の話を聞いていればよかったかもしれない。
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# by lidth-s-jay | 2011-07-02 23:26 | 学校全般

スマートかつ不便なもの

 大学に通うのが非常に苦痛だった頃がある。
 勉強が嫌だ、通学に時間がかかる(あとどこの学校も同じだと思うが坂が多い。辛い)、という理由もあるが、それに加えて困ったことがある。
 教科書が異様に重いのだ。

 高校ぐらいまでの教科書はカバーもペラペラだし、ページ数も知れている。ところが、大学で使うのは教科書というより、いわゆる専門書が多い。ハードカバーで、4cm近い厚みの本を、たとえば1日に3コマ分ぐらい授業があると、それを持っていくだけで手がだるくなる。
 さらに、クラスがはっきり分かれていて、自分の机があった中学高校と違って、常に教室移動を強いられる大学は、教科書をどこかに置いておくことが原則不可能だった。だから毎回持ち歩くしかない。

 そんなわけで、カバンの中は常にパンパン。リュックタイプにすれば多少楽になるが、満員の地下鉄では邪魔なので良し悪しだった。

 カバンに収まらないし、岩みたいに膨れ上がってかっこ悪い。そんな悩みをスマートに解決する道具が、あった。これだ。
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 ブックバンド。教科書を布ベルトみたいなので十字に縛って持ち歩く。教科書にそのまま巻きつけるので、それを持っているだけで、「大学生だ」「勉強してるっぽい」「なんかかっこいい」「コンパとかすんのかな」などと思われるのかどうか。とにかく、このブックバンドを使用する学生は多かった。
 僕もスマートさんになりたくて、緑色のブックバンドを持っていた。しかし・・・どうしても十字に縛ることができなかった。不恰好になって本がこぼれそうになった。しかも、カバンの中がすっきりしても、自分が持つ教科書の総重量が変わるわけではないし、手は塞がるし、雨の時は濡れてしまうから意味が無いし、で、機能性は非常に低かった。無理に2回ぐらい使って、すぐやめた。
 
 しかし、カバンがふくれる悩みは、教科書を持っていくのをやめたり、そもそも授業に出なくなったりで、根本的な解決を得たのだ。何か本末転倒的な感じもするが。ていうかあんな分厚い本3,000円前後するのがとっても勿体無い気がする。大学の売店にズラッと並んでいたが、大して使わないのに買わされて、詐欺じゃないのかと思った。

 iPadとかAmazonのキンドルみたいな端末が安く買える時代になったら、そんな心配も軽くなるんだろうな。iPadをブックバンドで持ち歩く天才が出てくるかも。
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# by lidth-s-jay | 2011-07-02 23:25 | 学校全般

 学校の図書室(以下、図書館)にもいろいろ思い出があるが、そのうち借りた本の話をしたいと思う。


 高校に入ってまだ数ヶ月経過した位でも、結構図書館は利用していた。小学校の図書館と広さは変わらなかったが、棚の構成としては、絵本を含めた文学よりも、より実学的な本の比重が大きかった。専門書ではなく、中公新書とかブルーバックス、岩波ブックレットなど、わりと入りやすい教養モノが目立っていた。

 その中に、平凡社か新潮社のカラー図説モノで、フランス革命についての本があった。
 まだ授業で世界史は受けておらず、せいぜい現代社会で人権の歴史をやっていた頃かもしれないが、どうしてこの本を手に取ったのかは覚えていない。しかし、偶然ながらその中身の過激な内容に驚いた。
 そこには、革命前の王族貴族の連中が放蕩に明け暮れる絵画が掲載されていた。日本の春画みたいなグロテスクなものではなく、下手に品があって、しかし「これ絶対入ってるよね!!」という絵が並んでいた。もっともその辺は最初の章に数ページ載っていただけだが、一応芸術品だし変に黒塗りもできないしで、アレとかソレとかが堂々と出ていた。モロだし。
 一方高校生になったのに、相変わらず手持ちのエロ本はわずかで(みんな中途半端)刺激を求めていた僕には、このフランス革命の本がまさかの「オカズ度」の高い本だった。
 しかも、裏表紙に挟まれている「図書貸出カード」を見ると、貸出履歴の中に、同じクラスの女子の名前があるではないか。「これは・・・あの子もこの絵をみたのかなハァハァ」・・・まあ正直言って同じクラスとはいえ良く知らない子だったのでその辺が残念だったが、プラスアルファ効果は間違いなかった。
 
 ところが、これだけ盛り上げておいて何だが、その後僕がそのフランス革命の本を借りた覚えが、ないのだ。借りたかもしれないし、そうでもないような気がするし。躊躇したのは「俺様がこれを借りると、次に見たやつが『うわっこいつ借りてるよ!!』って思われたらどうしよう」という気持ちがあったのは、事実。
 今さら何を言うか、と思われるだろうが、今思い出した、この本はもともと僕が見つけたのではなく、他の男連中が「これ見てみろよ、すっげえヤラシイ絵がある」と教えてくれたのだ。
 そうなのだ、結局みんな発想が同じだから、そこから一抜けして借りてに持ち帰ることは、そんな簡単なことではなかったのだ。全く説明になっていないのかもしかして。
 

 その後3年間、僕は引き続き図書館でエロ探しを・・・するわけもなく、普通に本を探し、棚から本を抜き、借りていった。
 あの情熱は、今も消えたわけじゃないとはいっても、借りるか否かなどと苦悩する時代は、きっと来ないだろう。こんな些細なことでも、ちょっと衰えを感じずにはいられないのだ。
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# by lidth-s-jay | 2011-07-02 23:25 | 男子・女子

 大学のオケ(オーケストラ、管弦楽団)に入ろうと意を決し、説明会にも行った。練習見学にも行った。アンケートには「バイオリン希望」と書いた。
 そして、入部説明会にも行った。この時点でもう殆ど気持ちを固めている・・・つもりだった。だったのだが。
 入部希望の同志に馴染めない。
 まずは、その圧倒的な女子学生シェア。女だらけの環境など、高校のときのウタゴエ部で慣れているはずだったが、あのウタゴエ部が良くも悪くも「馴れ馴れしい」感じがあったのと対極的で、お互いに話をしようという気が全く起きない。加えて、高校までは田舎くさい感じが親和性を促進していたのに対し、この女子群はなんというかお嬢様系で、なにか主従の関係すら漂うのである。お嬢様と書いたが美人が多いという意味では決して無い。
 男子はというと、今の記憶であるが弦楽系では私を含めて3人ぐらいしかいなかったようだ。やや大人しい雰囲気ではあったが普通には話せたと思うので彼らが嫌だ、ということはなかった。しかしいわゆる「明るいバカ」も皆無で、息が詰まる感じがした。
 
 ともあれ、とりあえず体験入部となり、練習ルームで、はじめてバイオリンを持たせてもらった。肩の凝りそうなポーズで弓を弾いてみる。油の切れたドアが開く時のような、情けない音しかでない。それは仕方が無いかな、と思った。
 それよりも、この体験入部の際、4年生の先輩男女2人(後で分かったが団長とコンサートマスターだった)が、新歓コンパの話をしていたが、冗談ではあるだろうが「潰してやる」と言ってて、たったそれだけなのに私は完全に怖気づいてしまったのだ。今でこそ酒大好きな瑠璃カケスも、さすがに18歳当時は大酒も飲めず、無茶な酒は徹底的に回避したい気持ちでいっぱいだった。「オケにいたら、潰されるかもしれない・・・」誰に言うとも無く、そのごの練習でも一人でビビっていた。

 その後、はじめてオケの合同練習を見学した。顧問の先生がタクトを振るって、6月の定期演奏会で演奏されるであろう楽曲をやっていた。
 この時間が異様に長かった。まず、「このオーケストラは素人から見てもとてつもなく下手だ」ということに改めて気づかされた。原因は金管楽器系。実際、先生に何度も何度も止められて、豆腐屋のラッパでも間違えないフレーズを屁のようにすかしていた。弦楽器のほうは良し悪しが分からなかったが、そんなことよりも「チームとしてやっていけるのか」余計に不安に思った。
 時間の経過が遅くてだるかった練習も終わりとなって、ヤレヤレと思っていたところで、先生が「今度は新入団員の歓迎会ですね、楽しみにしています」と言ってたのでまた思い出した。そうだ酒から逃げないと・・・この日1日で、もう、オケに入部する気は無くなった。

 日が経たないまま、結局私は入る気が無かった筈の男ウタゴエ部に正式入部することになった。オール男で1年生部員が全員同じ学部という要素は、デカかったのだ。高校までの合唱経験もあって、入部は非常にスムーズにいった。男部も実際はそうとうキテる感じの先輩が多かったが、オケの上から目線的な雰囲気はないだけ、ストレスフリーだった。
 
 一方、オケの方は部室へ赴き、団長に入部取り消しを願い出た。即時OKが出たわけではなかったが結果は当方の申出を尊重して受理してもらった。ここまで書かなかったが、オケには、高校のウタゴエ部出身の先輩がいて(4年生、ビオラ所属、高校のウタゴエ部はソプラノ所属)こちらの慰留が強かった。私としても、その先輩を頼りにいろいろ話を聞いてもらっていたし、申し訳ないとは思っていた。その他にも、わずかながら残ってほしいと言ってくれる先輩もいて、勝手ながら「ああ、中には血の通った人もいるんだな」などと思った。

 そういうわけで、管楽器→合唱→弦楽器の音楽三段跳びプランは短命に終わった。とくべつ合唱が好きというわけでもなかったのにまた続けてしまったが、結局、音楽がどうとかというよりも「仲間(友達)がほしかった」という気持ちが強くて、新たなチャレンジを拒んでしまったことになる。
 
 入学式でヘンデルの「ハレルヤ」を演奏してたオケは、4年後の卒業式典でも同じ「ハレルヤ」を演奏していたが、入学時とは比べ物にならないほど滅茶苦茶下手糞になっていた。定期演奏会でも誰も知らないマイナーな作曲家の楽曲を引っぱり出してきたり、先述のコンサートマスターが演奏会当日になって急遽変更になったりと、迷走を極めた。
 それでもお構い無しにそのまま入部し、バイオリンでドレミを奏でることができていれば後悔することはなかっただろうか。今になっては、もう想像することもできないでいる。
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# by lidth-s-jay | 2009-04-19 13:17 | クラブ活動

 今から17年前の1992年(平成4年)の4月、私、瑠璃カケスは大学生となった。
 大学時代なんてごく最近のことだった、などと思っているうちに、とんでもなく遠い過去になってしまっていた。なんせバブルの頃だ。あの頃はインターネットもケータイもなく(ポケベルも入学当初は誰も持っていなかった)、緑色の公衆電話でテレホンカード使って電話するのが当たり前という時代だった。今回は電話とかテレホンカードの話はしない。前やったような気もするし。
 
 ところで、大学の春、といえば、やりすぎじゃないかとも思う「サークルの勧誘」である。
 唐突ではあるが、今回はサークルのことを書こうと思う。

 *

 中学で吹奏楽部、高校で合唱部(このブログではウタゴエ部と呼んでいた)として、わりと音楽に親しんできた瑠璃カケスであるが、大学に入ってもサークル等でその音楽を続けるかどうか、やや迷いはあった。ゴルフ部なんかも考えていた。あれはなんだったんだろう。
 一方で、いくつかのサークルで勧誘を受けた。「飯をおごるから話を聞いてほしい」という人が結構いて、実際タダ飯を食った(学生食堂のランチである。最初から不味かった)。その後勧誘の電話もいくつかあったが、ヨット部とか絶対入らないところからだった。何で名前書いたんだろ。
 どちらにしろ、サークルを通してでもいいから、友達を作りたかった。もう孤独で孤独で、キャンパスの通路がサークル勧誘のみならず春の賑わいが際立つほど、居場所の無さを憂えた。迷ってる余裕はなかった。
 実は、入学式直後に勧誘を受けたのは男声合唱のサークルだった。最初は、「あ、まあいいか男だけのウタゴエでも」と思い、いろいろ考えたうえで、とりあえず練習を見学した・・・が、正直とても地味で(練習場所の教室も暗かった)、先輩とかもヤバそうで、これを4年間続けるのは・・・できれば止めとこう、そう思った。
 
 吹奏楽で管楽器、合唱で声楽、と来ていたので、本命は弦楽器、つまりオーケストラだった。管弦楽団。高校まではまず御目にかかれない、ある意味大学という広い世界の象徴のように、オケのことを考えていた僕は、自分の音楽的ステップアップも考えて、勧誘を受けていないオケの部室のドアを叩いた。入学から10日程度経った頃のことである。(続く)
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# by lidth-s-jay | 2009-04-03 21:30 | クラブ活動

ニッキョウソのセンセイ

 「ここに書くのも久しぶり」が恒例だ、なんていう間に、世間では発足したばかりの内閣の一大臣が在任期間5日という合宿並みの速さで辞任する騒ぎが起きた。「ニッキョウソは日本のガンだ」など、ニッキョウソを徹底批判する発言を続け、辞任した後もその発言、姿勢を撤回しようとしない。肯定的に言えば「貫いている」。インターネット上では彼を擁護する意見も少なからず見受けられる。個人的にはその意見の是非云々より「別にこんな時に言わなくても・・・」という気がするが、どうだろう。

 さて、槍玉に上がっているニッキョウソ。日本の教育をダメにしたとまで言われるこの集団・・・なんだそうだが、実は30ウン年生きてきて、ニッキョウソがどういうモノなのか、実はよく知らない。知らないし知ろうともしなかった。
 イメージとしては「赤い思想を持ったセンセイ達の集まり」「もう古い人」「あんまりセンセイとしての仕事をしない」というところか。数年前だが本の配達の仕事をしていた瑠璃カケスはニッキョウソのアジトにも出向いていたことがあった。古汚い建物の2階で、垢抜けない感じの男女2人が暇そうにしてた。金払いは今ひとつよくなかった。社民党のポスターが貼ってあった。



 昔は、ニッキョウソのセンセイは結構いた、らしい。しかし私瑠璃カケスが知っているニッキョウソのセンセイは、2人。うち1人は、よく覚えている。今から20年も前、中学1・2年、隣のクラスの担任だったミシマ先生だ。
 体育の先生だった。特別授業にならない授業をしていたわけでもなく、普通にバレーもサッカーも陸上もやっていた。クラスも異色という感じはなく、言われなければニッキョウソのセンセイだなんて分からなかった。ただ、体育にしては楽な授業だった。瑠璃カケスは運動音痴なので体育が嫌いだったがミシマ先生はわりかし好きだった。
 中学の養護教諭で校長よりも威張っていたトラバアという嫌なやつがいたが、ミシマ先生はそのトラバアとも果敢に口論していた。クソトラバアに立ち向かった先生なんてミシマ先生ぐらいじゃないだろうか。偶然にもミシマ先生とトラバアは同じ年度で学校を去ることになる。トラバアはもう死んでるかもしれない。
 2年生の時、春の学年合宿の際ダンスを取り仕切ったのがミシマ先生だったが、その時もちこんだYMOのライディーンは今でも忘れられない。ダンスでライディーンとくれば竹の子族だろう、と想起される方は相当中年だと思うが、まさにその通りで、ミシマ先生は中学生の我々に竹の子族ダンスを教え込んだ。他の先生方は反対しなかったのだろうか・・・今思えば、その辺がミシマ先生のニッキョウソ的な片鱗をうかがわせる部分だったのかもしれない。
 
 うちの担任だったヤン先生が、ミシマ先生はじめ同学年の先生たちとカラオケに行った時のことを「ミシマ先生は・・・上手いとは言えんが、元気だけはあるんだよな」と話していた。
 そのミシマ先生、離任式の際、挨拶もほどほどに「上手いとは言えない元気だけある」姿で歌い始めた。あれは歌ではなかった。遠吠えするサルのようだった。もちろん、何を歌っているか分からない。
 音程も無茶苦茶な、ミシマ先生の歌う姿に・・・斜めから見ていた私は、涙をこらえるのに必死だった。もうちょっと上手だったら、そんな寂寥感を抱く事もなかっただろう。
 在校中、車の追突事故に遭い負傷したミシマ先生だったが、今も元気にしているだろうか。もし今でも教職を続けられているとしたら、やはりまだニッキョウソに籍を置いているのだろうか。



 便利な世の中だから、ニッキョウソのことを知ろうと思えば簡単にキーワードを拾えるだろう。だけど先述のとおり特に知りたいとも思えないし、ミシマ先生のことを思い出すと、なんだか、あんまり悪い方向に想像したくない、というのもある。
 

 世の中に疎まれるのではなく「称えられる」センセイが、もっと増えてほしい。そうなれば、子供たちの未来も自ずと開けるんじゃないかなあ。
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# by lidth-s-jay | 2008-10-01 21:32 | 中学校専用