「ほっ」と。キャンペーン

 突然だが、瑠璃カケスの実家にはピアノがあった。
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 姉がピアノをやりはじめたからだと思うのだが、記憶ではヤマハのアップライトで60万円ぐらいしたはずである。そんな買い物なんでまた、と思う。
 女子のいる家庭とはそういうものなんだろうか・・・と思わせるほど、同級生の子達も、ピアノ教室に通う割合は多かった。
 やっぱり感覚とか好き嫌い、根気などに差が出てくるのか、ピアノを習ってる子も「クラスの合同演奏時には自他薦で選ばれる達人」「文集に書くネタとして(ピアノの先生になる)」「隠し通す」など様々だった。
 大体は小学校で脱落するが、そこそこ腕のついた子は中学まで、よく分からないが高校(音楽科ではない)に入っても続ける子も稀にいた。「うそだろお前ネタじゃないのか」という意外な人物が猛烈に上手かったりした。単に金持ちなんだろうなそこまでやらせるからには。

 常に姉がやっていたことを真似たがる私も、幼稚園の時ピアノをはじめた。しかし、「練習が死ぬほど嫌だった」「同級生に『おまえ女みたいなことしてるな』とからかわれた」という理由で、1年半程度でやめた。
 練習は確かに嫌だったが、同じオスの言うことなんかに耳を貸さなければよかったと後悔している。その後部活が音楽系で、「ピアノ以外は」女にも負けない自信があったが、やっぱりピアノができなかったことを悔やんだ。やってたら少しはモテていただろう。さあここからが本題だ。

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 田舎だからだろうか、ピアノを続けてやっている男子は小学校の同級生で殆ど聞いたことが無い。後に吹奏楽部で一緒になるやつが少しやっていた(親がどちらも音楽教師)が、まともな演奏というレベルには至っていなかった。
 高校に入ると、男子でもスラリとピアノを奏でられるのがいた。ああいかにも弾けそうだなという容姿の持ち主もいれば「なにこのオッサン」みたいなのまでいた。見た目はともかく、羨ましいと思った。
 
 そういうわけで小中では腕のある奴と出会うことはなかったが、小学校の時と違い、中学生になると「ピアノ弾けたらちょっとカッコイイかも」と思ってしまう男子がにわかに増えてきた。カッコイイのである。中2病の症状例として著しい、なんちゃってピアノである。
 当然、練習してもいない奴らばかりなので、チューリップを人差し指で奏でるのが精一杯なのだが、家にピアノがあるからか、教室通い歴があるのか、わずかながら両手を使える子もいた。
 両手を使う、といっても、左手で拍を奏でるような高度な弾き方は一切しない。ホンの少しのコード(CとかG7とかギターでよくあるアレ)を理解していればよい。弾けない奴から見たら「おまえすげいよ」とびっくりされ褒められる。上手くいけば(特にピアノが弾けない)女子の目をひくことができる。断っておくが弾ける奴らから見たら嘲笑されること間違い無しなので人選には注意が必要だ。

 ピアノが弾けるようにみせかける曲として、こんなのがあった。
ボン・ジョビ「夜明けのランナウェイ」
TMネットワーク「Get Wild」「SELF CONTROL」
ファミコン・ゲームの音楽
(「ツインビー」「グラディウス」「スペースハリアー」など)
坂本龍一「Merry Christmas Mr.Lawrence」
エリック・サティ「ジムノペティ第一番」

 多少難度に差はあるが、ホンの少し練習すれば(あと、残響音のペダルを踏むという小技?もつければ)もう半人前のピアニストである。あいつはピアノが弾けるんだぜと噂が立つであろう。弾ける奴に何か言われないよう、くれぐれも注意だ。

 あと、上記の曲名からお分かりだろうか、かなり古い。80年代の曲ばかりであるが(サティはクラシック)、今だとどんな曲があるだろうか。福山雅治の「Squall」(99年)、森山直太朗「さくら」(03年)などはチャレンジのしがいがありそうだ。
 それから、ピアノの奏法は先述のとおり、コードが分かっていれば両手が動かなくてもナンチャッテで弾ける。ジャズなんかはいい例だ(あくまでも極論であるが)。また、先日もいいともでタモリがなんちゃってピアノを演奏していた(→YouTube動画参照)。


 猛烈に長くなってしまった。やっぱり普通に練習して弾けるようになるのが一番だと思います。
ここまでやる必要はないと思うが。
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# by lidth-s-jay | 2007-03-30 17:10 | 男子・女子

 クラミ先生が復帰した1週間後ぐらいに、私は職員室を訪れて先生に会った。
 「先生、前期が終わるころ(9月末)にみんなにアンケートとったやつ、あれ見せてもらえませんか」とお願いした。
 これは、クラス全員にとった「前期は誰が一番頑張っていたと思うか」「後期の委員長は誰がいいか」というアンケートだった。クラミ先生がこのアンケートをどういう意図でとったかは分からないが、私にとってはとても気になるものだった。
 当然、本来は機密情報扱いとなるはずが、クラミ先生は二つ返事で背を向けて収納棚から藁半紙の束を出してくれた。「いいよ、持ってっても」・・・返してね、とも言われなかった。一礼したあと、私はそれを持ち帰って一枚一枚読んだ。

 前期頑張った人も、委員長として挙がっていた名前も、私が多かった。
 ちなみに前期私はクラスの風紀委員(のようなもの)だったが、何も特別なことはしていない。委員活動云々ではなくて、クラス行事には積極的で前向きだったのが、クラスの連中には何かプラスとしてうつったのかもしれない。それは、誇らしいことではあった。結局委員長ではなく、生徒会を選ぶことになったが、そのときはクラスのみんなも応援してくれていた。

 しかし、やがて文化祭の決め事などでクラス内の分裂が決定的となり、また受験期が近づくと同じ高校を目指す同士が固まるようになり、空回りする私を気にかけてくれる奴はほとんどいなかった。私も別に望んではいなかった・・・が、担任の先生ぐらいには叱咤激励、アドバイスをもらいたかった。もし私から話をすれば聞いてはくれるだろうし、何かの言葉をかけてくれたかもしれない。それができなかった、やらなかったのは私の稚拙さだろう。しかし、子供のままの私は、受身である自分を正当化し、声をかけてくれないクラミ先生を次第に恨むようになっていた。
 このアンケートをとって私が生徒会に進んでハイよかったね、そういう気持ちだったんだろうか。

 私立受験の直前、帰りの連絡会で少し私語を漏らしていたことに注意されたのを逆恨みしたのか、私は生活記録に今までの成り行きを徹底的に書きなぐった。

 『あの時何で生徒会の選挙なんかに出てしまったんだろうか、普通にクラスの何かの委員で3年生を終わらせたかった、みんなは期待してくれたけれど僕はもうやる気はゼロだった、
 ・・・なんで先生は止めてくれなかったのか。神経を疑う。信じられない。時間を返してくれ。もう受験も何もかもたくさんだ。はやく卒業したい。中学なんかまっぴらだ。それだけだ(要約)』
 
 文章としては3ページぐらいだったが、イチャモン甚だしい、しかし確実に先生を責め立てる内容だった。

 いつもはハンコかせいぜい1行2行の赤ペンしか添えないクラミ先生が、私に負けじと4ページに渡って返事を書いてくれた。
 
 『貴方がそういう気持ちになって苦しんでいることを理解してあげなかったのは私の責任です。ただ、本当に生徒会に入らなければよかったと思っているんですか?私はむしろ、出会った頃の貴方の明るさがどこに行ってしまったのか、それが気がかりでなりません。貴方がそんな思いつめるような人間だったとは予想だにしませんでした・・・いずれにしても、私が貴方に対してもっと気配りをすべきでした(要約)』

 そのあとも、呼び出されることもなかったし、加えて何か言い訳されるわけでもなかった。
 それから私はクラミ先生と話すことは殆ど無くなった。先生も、気まずさを引きずったまま、しかし時折授業中に私を指名して答えさせていた。記憶にあるのは最後の道徳で取り扱った「被部落差別」の話、だった。

 公立高校受験直前の3月13日、卒業式を迎えた。
 悪夢のような生徒会の活動も、振られたあとのまどろっこしい空気ともサヨナラできる、そんな解放された気持ちでいっぱいだった。
 そして、クラミ先生とも別れる時が来た。
 私は、親からカメラを借りていて、クラスの連中と写真を撮っていたが、式の前に、スーツを着込み、私たちと同じく胸元に花をつけたクラミ先生を呼び、「センセイ、写真撮らせて」と言った。
 ファインダーの向こうには、ピースサインを突き出して、ニヤニヤしているクラミ先生がいた。

 ・・・ちなみにこのカメラ、途中でフィルムの蓋が開いてしまい、全部パーになってしまった。


 *

 
 中学を卒業して2年経過し、高校でウタゴエ部の練習に行く途中に、なぜか校庭の通路でクラミ先生と出くわした。高校の近所に住んでいて寄ってみたのだ、という。
 髪を伸ばした私と、着崩れした格好をしていたクラミ先生だったが、ホンのちょっと前にも出会ったかのように、普通に話した。
 明らかに違うのは、クラミ先生の両手に、生まれたばかりの赤ちゃんが抱かれていたことだ。
 
 クラミ先生は私たちが卒業後、ほどなくして退職していた。教師だった頃の空回りした張り切り姿ではなく、やわらかさをまとったお母ちゃんの表情を浮かべていた。


 同窓会の類も出ていないので、それからは、先生とも15,6年会っていない。
 あの時生まれた赤ちゃんも、もう高校生ぐらいになっているはずである。
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# by lidth-s-jay | 2007-03-25 18:56 | 中学校専用

 年が変わって平成元年(1989年)1月、ちょうど元号まで変わって慌しかったころ。
 新学期が始まったとたん、なんとクラミ先生は長期休むことになった。強面で何かにつけて容赦の無い副担任のフクイ先生が教壇に立っていた。特別怒られるっていうわけじゃないのだがもうその存在が怖くて、我々はおとなしくするほかなかった。
 クラミ先生は、産休だった。腹が出ていたようには見えなかったので、理由を聞いた時は驚いた。
 しかしまあ、3年生の担任だというのに家庭計画というか、そういうものを考えなかったのだろうか。
 担任はフクイ先生が1週間程度務めたのち、臨時でマチコ先生という外部からのオバサンが入ることになった。数学はアボウ先生という休養明けの先生が入ったが、とことん人気がなかった。私は別に嫌いじゃなかったが、確かに顔がヤバかった。

 どちらかというと私は、鼻につく喋り口調とかしつけにうるさかったマチコ先生に馴染めず、反抗期むき出しで顔をそむけていた。しかし、ある時点で心を切り替えて、わりと素直にマチコ先生の言葉を聞き入れるようになった。

 そして2月、クラミ先生は流産した、とフクイ先生が教えてくれた。そして10日ぐらい経過したのち、クラミ先生は再びクラスに戻ってきた。
 どういう気持ちだったのだろうか、そのときは子供を産むことをよく理解できなかった私は「ふーん」ぐらいにしか思っていなかった。クラミ先生も、久しぶりの教壇で「まあ、また主人と頑張って産もうと思います」と笑いながら言っていたが、本当は、いろいろ抱えるものがあったのかと思う。
 
 とはいえ、私たちの興味事は来月に控える高校受験にあった。また普段どおりの時間割、授業が流れていった。

 しかし、私は少し事情が違った。
 秋の後期生徒会執行部選挙で、私は生徒会長に選ばれた。名誉ある職であるが、その実は特別なこともせず、またそのことを執行部担当のキシロウ先生(A組)、また他のクラスの連中から批判され、半ば気持ち的に参っていた。思えば、いろんなやつに担ぎ込まれて、半ば強引に立候補させられた形だったが、その時も、そのあとも、クラミ先生は「いいんじゃないの」という傍観視を決めてかかっていた。全く頼りにならなかった。
 クラミ先生にしてみれば、「放っておいても君は楽天的だからなんとかなるでしょう」というスタンスで見ていた。それアンタじゃないかよお気楽なもんだ、と、頼ることのできない担任の下にいることを、本当に悔しがった。

 直前の高校入試模擬試験で、私はかなり成績を落としていた。おまけに3年のときから好きになった子に告白して見事に振られて、身から出た錆とはいえ、段々と自暴自棄気味になっていった。
 私立高校受験前の、2月最初のことである。
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# by lidth-s-jay | 2007-03-24 07:54 | 中学校専用

 中学3年となった春、昭和63年(1988年)4月の始業式。
 どこから情報が漏れたのか、私は1・2年のとき散々付き合わされてもう勘弁してくれと思っていたヤン先生のクラスから外れること、恋しつつも敵だった愛憎のかたまり、アンディと同じクラスになること、それだけは分かっていた。
 そして、D組からE組へと移った。先生の名前を見る。あれ?知らない。誰だ。
 この春、市内の学校から転任してきたクラミ先生だった。

 当時31歳、結婚したばかりで、クラミというのは実は旧姓である
 小4の後半のガクト先生から中2のヤンまで4年半、男の先生で、そろそろ女の先生がいいなあと思っていたところだったので、まあ丁度よかった、とは思った。
 これでもかと言わんばかりの刈り上げショートで、太ってはいなかったが(痩せてもいなかった)顔がアンパンマンのように腫れていた。同世代以上の人からみたら愛嬌のある?可愛い?顔立ちなのだろうが、中学生だった私たちは「オバサンじゃねーか」という受け止め方をしていた。

 地元の国立大教育学部出身という、典型的な先生ルートをたどっていたクラミ先生は、やはり典型的な教師、だった。なんというか、ありがちな。
 あんまり冗談は通じない、まあそこそこ明るい、最初に作った学級通信は最初の1号だけ、生活記録を提出してもハンコひとつ押すだけ。女性らしさは、というと、カリアゲのおかげで何も見えてこない。そんな先生だった。
 教科担当は数学だった。これも特別すごい授業でも、とんでもなく下手糞な授業でもなかった。ひとつ褒めるとすれば、黒板の字が上手だった。読みやすい字。以前1年でとっとと辞めた社会のセツコ先生とはえらい違いである。あれは日本語じゃなかった。

 忍耐力もあまりなくて、授業中に暴言を吐いたボス気取りの馬鹿、タイヨウに「あなた、アタマおかしいんじゃないですか!?」とまで言い放った。さすがにそれはまずいだろと思った。のちにタイヨウは2年の時の担任だったカッパ先生と廊下で面談して落ち着いたようだった。

 
 クラミ先生は3年担任ということもあり、進路のことは比較的熱心に取り組んでいたようだったが、学級運営は放置気味で、クラスの委員長選考、文化祭の演劇で何をやるか、生徒会選挙への立候補者擁立までぜんぶ生徒に丸投げし、特別なアドバイスも指導もしなかった。介入の良し悪しは分からないが、私からみたら難しいことから逃げているようにも見えた。
 一度、廊下を歩いていたら、隣のD組担任のヤン先生に拉致されて「ちゃんとしろよ、お前んとこの担任は使えんのだからお前らがどうにかしないとダメだろ」とヘッドロックをかまされた。相変わらず鬱陶しいなヤンめ、と思ったものの、確かにクラミ先生は頼りなかった。
 クラスの仲は悪いしみんな勝手だし、このまま1年間終わっちゃうのかなあと思うと、げんなり来ていた。(続く)
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# by lidth-s-jay | 2007-03-22 12:36 | 中学校専用

シゲルくんのこと

 小学校よりも先、幼稚園の頃の話になる。昭和54年(1979年)。
 さすがに記憶もかすかなのだが、タイトルどおり「シゲルくん」の話を書こうと思う。そもそもシゲルくんだったかも怪しいのだが。

 
 通っていた幼稚園は小学校の付属で、1年間だけだった。
 それまで、うちの町は主に2つの保育園に分かれて通園し、付属幼稚園になって初めて町内の同年代が集まっていた。組の数は4つ、色に分かれていた。
 そのなかで、瑠璃カケスは青組。シゲルくんも青組だった。
 
 幼稚園は義務教育でもないから、突然NEWキャラが増えることもあったが大抵は入園時からの1年、ずっと一緒にいるものだった。しかし、シゲルくんと同じ青組だったのはあまり覚えがない。むしろ、途中からシゲルくんの存在を知るようになった。幼稚園児とはそういうものなんだろうか。
 そのころから既に私はあんまり群れの中に入るのが苦手で、ひとり遊びが多かったが、猫のように気まぐれなのが幼稚園児である、時々輪の中に入ったり、特定の子と遊んだりしてた。シゲルくんとも、突然遊ぶようになった。
 何か知らんがいつも照れ笑いしてて、みんなより少し背が高め、色黒でインド人のハーフだと言われても疑わなかっただろうという濃い顔。そんなシゲルくんと右手を拳銃の形にして、バン、バーンと打ち合いごっこをした、覚えがある。
 
 ある、冬の日、午後3時過ぎの「お迎え」時間で園庭でみんなとダラダラしてたところ、誰かが「シゲルがゲボ(吐瀉)した」と言った。トイレで、らしい。シゲルくんの姿は見えなかった。
 体調を崩して吐いてしまうことはよくあることで、私自身も経験があったが、あんまりその気すら分からなかったシゲルくんが吐いたことには、わずかながら心配心がさまよった。
 大丈夫かな、そう思いつつ、やがて私は母の迎えとともに家路へ向かった。


 次の朝。
 青組の教室で粘土やらオハジキやらでダラダラと遊んでいた私たちを掻き分けるように、カツミくんが声を荒げてやってきた。
 
 「シゲルがしんだ!」

 一瞬何を言ってるのかよく分からなかったが、昨日のシゲルくんの吐瀉を思い出して、程なく納得させられた。いや、納得していないのかもしれない。死ぬって?じゃあシゲルくんはもう幼稚園には来ないの?悲しみとか驚きよりも、いったいどうなってるのか、分かっていなかった。私だけでなく、みんなも。
 お昼前に、担任のトラコ先生が私たち青組の前で説明をはじめた。どんな話だったか殆ど覚えていない、けれど、「シゲルくんはね、イタイイタイって言わないで、静か・・・に死んでいったの」という言葉だけは覚えている。もしかしたら、死んだという直接的な言葉は使わなかったかもしれない。天国にいった、と言ってたかもしれない・・・私たちは、やはり泣くこともなく、ただ呆然として、トラコ先生の言うことを聞いていた。

 数日たって、幼稚園のみんなでシゲルくんの墓へお参りにいった。
 このとき初めて、死んだ人がお墓に入ることを知った。お墓参りの意味を分からず、ただの遠足のように列を作って、いつものように歩く。ふざけていると先生に怒られる。それは何も変わらなかった。ただ、行く場所が墓地で、シゲルくんがいる前で手を合わせて目をつぶることだけは、いつもの遠足や散歩とは違っていた。


 幼稚園を卒園し、すぐ隣の小学校に上がって数年後、シゲルくんの死因を聞いたことがあったが、詳しい病名は分からないままだ。ただ、「内臓の位置が健康体と真逆にあった」とか「心臓が悪かった」というところから察するに急性心不全の類なのかな、と思ったりする。
 幸いにして、その後小中とも、一緒に過ごした同級生が亡くなったという話は聞かなかった。一方で、高校では早世した同級生もいた。

 幼稚園を出てから四半世紀以上経過したが、みんなどうしているんだろうか。元気に、やってるかな。


 早引けしたシゲルくんは、天の上でもインド人と間違えられたりするんだろうか。
 きっと、もうオッサン顔だろうな。いやあ参っちゃうよみたいなポーズ、してるかな。
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# by lidth-s-jay | 2007-03-18 07:37 | コドモのココロ

 赤面文集リプライズ、後半である。
  
 前半に紹介したモテタイ系のほか、モテナイ系(女狙いを考えていない連中)にもいろいろな奇作が目立った。

 学校のことをソコソコに趣味にページを費やす男子。滅多に口を開かない、物静かなやつがF1だか何かの外国車で熱く語っていた時はアンタしゃべんないでそんなことばかり考えてたのかよと萎える気持ちになった。
 唐突にクイズを書く。しかも答えは掲載されていない。こればっかりは脳裏探索不能である。無類のクイズマニア(なおかつ文集が嫌いでスペースを埋めたいが故の蛮行)であろう。
 2ページびっしりにゲームブックを書く。ゲームブックとは心理テストなどでよくあるYes-No診断みたく、多くの選択肢を用意してストーリーを読み進めていく(パラグラフ、という)やつで、80年代後半に流行したが、まさか文集で大作を書き上げるとは、大した馬鹿である。  内容もクラスの出来事(しかもえらく細かい)をふんだんにちりばめたものであるが、作った本人以外で読んだ人がいるのか甚だ疑問である。例によって普段は無口な男であった。
 半分のページをイラストで埋める。何も言うまいが、よほど文集が嫌いだったんだなと。

 女子も痒い感じの話が多かった。
 男子に比べて自己紹介が細かく記されていた。好きな色、とかはまあいいんだけれど、「よく見るテレビ番組」は、後々のことを考えて書くべきだろう。『君の瞳をタイホする!』『世界で一番君が好き!』など、どれだけWアサノに毒されてんだよと。好きな俳優:加勢大周とかも。新加勢大周って書いた子はいないのか。
 好きな本は大抵許される範囲なのだが、「銀色夏生」が多いのも特徴的である。キラキラふわふわ。一方、(男女共通して)アニメ・ファンタジー漫画などのマニアな趣味を列挙する人は少なかった。隠したい趣向なのかもしれないが恋心チラリズムな言い回し連発のほうが後々十分恥ずかしい記録ではないかと思う。
 仲良しだった子の名前を挙げるのも多かったが、裏事情もありそうで怖い。ずっと忘れないから・・・!!というノリなんだろうが、卒業後10年ぐらい音沙汰なしのまま忘却の彼方、が普通じゃないかと思う。むしろ突然電話がかかってきたら要注意だ。特に選挙前とか。

 内容はともかく、15分ぐらいあれば書けちゃうスッカスカなものから、お前そのエネルギー少し他に使えよと言いたくなる超力作まで、彼ら彼女らの本性丸見えな、個人ページ。嫁旦那、子供たちに見つからぬよう無事保護してほしいものだ。

 以上、高校では2年程度文集まとめを担当した瑠璃カケスの思い出。私が何を書いたかはさておき、代わりに文集を代筆してやった覚えはある。印刷後半泣きしてたな本人。
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# by lidth-s-jay | 2007-02-19 20:32 | 高校専用

 随分ぶりにUPするのだが、あまりの更新の無さに管理人である瑠璃カケスも驚きを隠せない。嘘である。皿洗いをしてたら急に書きたくなったのだ。まあいいや。

 さて。2月も中旬を過ぎ、小中高関係なく、また文集の季節になった。今でもあるのか分からないが、瑠璃カケスが現役だった頃(1980年後半~1990年初期)は「文集は当然作るもの」とされていた。
 
 文集作成にはあまり予算も無く、パソコン・ワープロもまだ普及するには至ってなかったので、藁半紙・手書きが当たり前だったが、学年によって装丁の具合に差はあった(平とじで製本されたものから、単に大型ホッチキスでガッチャンと留めただけのものまで)。
 内容も各個人の持分2ページの他に、「なんでもベスト5」「各先生からの言葉」「寄せ書き」など、一体何を考えて・・・というコンテンツもりだくさんだった(たまに手抜きの薄っぺらい文集もあったが)。

 どんな角度からも突っ込み具合満載な文集。当ブログでも小学6年ときの文集を紹介したことがあったが、今回は特に高校のときの文集について、なんだこれと思われる言い回しを羅列してみたい。ちなみに、残念なことに当該文集が手元に無く、すべて記憶だけの話になる。残念だ実に残念だ。・・・しかし、自分の文を読まずに済んで一安心というのもある。



 圧倒的に、男子がバカだ。タレントの伊集院光が「中二病」(中学2年頃に起こる、なんかしらんけど男子の格好つけたがり症候群)を挙げていたが、文集に関しては高校生のほうがひどい気がした。

 まず、歌詞をのせる。流行り廃れもあるとは思うが久保田利伸の「Missing」がその典型であろう。大沢誉志幸、ハウンドドッグなども彼らにとってよいテキストを提供してくれたようで、バンバン書かれた。ひどい場合にはボン・ジョビやa-haなどの英語詞を引っ張ってくる輩もいた。
 ちなみに女子にも、プリンセス・プリンセスとかパーソンズの乙女チックな詞を持ってくるのもたまにいた。女子だから許されるような錯覚に陥るが、十分恥ずかしいと思う。
 これが少し時間が過ぎるとZARDとかT-BOLANなどのビーイング系が多くなりそうだがどうなんだろう。それに比べ今の子は可愛そうだ。ヒップホップを書こうとするとそれだけで自分のページが終わってしまう。それともスキマスイッチや「ゆず」なのか。あんまり恥ずかしくないのが難点である。
 
 男子特有の言い回しに「これがこの一時の楽しさだと思うと涙が出そうになった」「涙がこみあげるぐらい嬉しかった」などもあった。いくらなんでも涙腺弱すぎだよ精子じゃないんだから軽々と出すなと思うのだが、こういう台詞を書いてしまうナルシズムというか自信過剰というか、凄いなと感銘を受ける。
 こういうのを女子が読んで「○○クンって優しさもあるんだ・・・」と思わせたら大したものだが、実際どうなわけこれ。私が女ならドン引きなんだが・・・。

後半に続く。
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# by lidth-s-jay | 2007-02-19 20:08 | 高校専用

 なんと2年ぶりのこのシリーズである。しかも、PSY・Sについては1年前に「そろそろ書く」と綴っておいて、そのあと見事に放置。・・・まあ、この辺にしておこう。
 その分、あまりにも内容が主観的過ぎて怖い部分もあるので、今回はいきなり「続きを読む」でご覧いただきたい。

続きを読む・・・>>>>>
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# by lidth-s-jay | 2006-11-22 09:13 | 音楽・芸能

 後半は瑠璃カケスの持論を。

 いじめ被害者の自殺についてだが、死んだらダメだ、なんてことはこれっぽっちも思わない。
 親兄弟が悲しむとか、そんなのは周りのエゴだ。そのぐらい、いじめられた人間は苦しんでいる。
 死んだほうがいい、なんて思わないが、無理して生きる必要なんてない、と思っている。それも究極の選択肢である。
 ただ、例の大臣宛手紙みたいに中途半端に「死にます」などと触れ回るのはやめてほしい。たとえ本音であっても。死ぬ前にやっておくべきことは、数多ある。
 
 重要なのは「無駄に死んではならない」ということ。絶対に復讐せよ。いじめ加害者の肉体・人生をボロカスにするぐらい。とにかく、やられたことを倍返しする覚悟を持ってほしい。
 本来、いじめる者こそ、普通に生きていくことは許されないのだ。自分の過ちを、一生悔いるぐらいの重荷を背負っていけ。
 
 いじめ被害者は、負けたまま生きてはいけない。たとえ人生の終わりを悟っても、せめて一矢報いるエネルギーだけは、どうか忘れないで欲しい。



 付記:現在を生きる「過去のいじめ被害者」の方へ。
 本来、「いじめられていた子供だった」とか「いじめられた体験」を紹介することは、あたかも同情を誘うかのような表現であり、現在の当人の評価とは無関係です。過去にいじめられようが、そんなことは知ったことではありません。
 このブログの性質上、私は過去のいじめ体験について綴りましたが、本来は、現在とこれからにつながる思いと、過去を「懐かしむ」記憶の断片、それらを文に書き言葉を発していくことが、私自身の務めであり、私の在り方はないか、と思っています。
 以上、持論を述べましたが、私も自我に囚われること無く、多くの見識・体験から学んでいけたら、と思います。
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# by lidth-s-jay | 2006-11-17 12:29 | 学校全般

 最近の社会報道は「飲酒運転」から「いじめ問題」にシフトしている。
 生徒~学校長の自殺、教師の加担、事件後の加害者態度、文部科学省への自殺予告など、問題は枚挙に暇が無い。
 ところで、いじめ問題、瑠璃カケスが小学校・中学校を過ごした頃の特に1980年後半も大きな問題となっていて、AC(公共広告機構)のCMや、各種いじめレポートなどの本をよく見かけた。1990年代に入っても、山形のマット圧死事件、愛知西尾の大河内君自殺事件、また2000年には名古屋緑区の中学校で延べ5000万円の恐喝事件が発生している。
 このうち、今回は当事者となった私の「いじめ体験」について書こうと思う。
 (幸いながら)ずいぶん記憶も薄れているが、思い出せる分だけでも綴ってみたい。


小学校
・2年生:同じグループの女子(あだ名はゴリラ)にとことんいじめられた。確か指でつねる、ような行為だったと思うが、いつも泣かされた。学校に行くのも嫌だった。3年になって、ようやくゴリラから解放されてホッとした。ゴリラは4年に隣の市に転校していった。

・3年生:やはり同じグループの女子に「しつけネタ」でいじめられた。いじめ、というほどでもないような気もしたが、泣いてばかりだったので、期末の通信簿に先生から「今期は女子にやりこめられたね」とコメントされていた。

・5年生:理由は不明だが、飛び降り自殺を図ろうとする。実際にはベランダに足をおとした程度なんだが。さすがに先生が焦っていたようだ。

・5年生その2:複数人に服を脱がされて全裸にさせられた(2回ほど)。これもあんまりいじめられている感覚はなかったが、さすがに2回目にやられた時は泣いた。それ以来「いじめっぽい」行為は無かったはずである。


中学校
・2年生後半~3年初期:これが一番酷いいじめだった。不良ぶってる同級生と肩がぶつかっただけでボコられて以来、放課後、私を見つけては校舎内の予備階段に呼び出して、殴打してきた。
 さらには「センズリしろ」と言われて、マスターベーションをさせられたこともあった。
 とにかく会う度にいじめられるので、夜寝るときも不安で寝られず、布団近くでラジカセの音楽をかけて気を紛らわせていた。

高校
・2年生:クラスの同級生が、ふとしたことで「声がカマっぽくて気持ち悪い」と、散々なじられた。英語の授業でテキストを読み上げた時、授業終了後、明らかに聞こえる声で、「あいつの声聴いてるとムカつく。殴りたくなる」と言っていたことも。


・・・など。いわゆるシカトや村八分的なものはなかったが、いじめには変わりない。
 中学で私をいじめた奴は、高校には行かず、衣料系の店で勤務しているという話を10数年前に聞いた。会ったところで復讐とかはしないけど。
 一方で高校ん時のは、もう殺意でギラギラしていた。死んでほしかった。3年からクラスが離れて事なきを得たが、もし一緒だったら高校は休学する可能性があった。3年で、同じく2年で一緒だったドラゴン(やや悪系)が「あいつムカつく奴だったよな」と言ってた時、自分だけじゃなかったんだと思うと救われた気がした。
 なお、この加害者(実名出したいぐらいムカつく)、地元の名門国立大を出た後、某大手証券会社に勤務している模様。さすがに今は復讐とか、そんなことは考えないけど、フツーに日向を歩いているかと思うと、一生かけて許せない気分だ。

 まとめは次項に改めて。
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# by lidth-s-jay | 2006-11-16 12:16 | 学校全般