クラミ先生との1年間(後編)

 クラミ先生が復帰した1週間後ぐらいに、私は職員室を訪れて先生に会った。
 「先生、前期が終わるころ(9月末)にみんなにアンケートとったやつ、あれ見せてもらえませんか」とお願いした。
 これは、クラス全員にとった「前期は誰が一番頑張っていたと思うか」「後期の委員長は誰がいいか」というアンケートだった。クラミ先生がこのアンケートをどういう意図でとったかは分からないが、私にとってはとても気になるものだった。
 当然、本来は機密情報扱いとなるはずが、クラミ先生は二つ返事で背を向けて収納棚から藁半紙の束を出してくれた。「いいよ、持ってっても」・・・返してね、とも言われなかった。一礼したあと、私はそれを持ち帰って一枚一枚読んだ。

 前期頑張った人も、委員長として挙がっていた名前も、私が多かった。
 ちなみに前期私はクラスの風紀委員(のようなもの)だったが、何も特別なことはしていない。委員活動云々ではなくて、クラス行事には積極的で前向きだったのが、クラスの連中には何かプラスとしてうつったのかもしれない。それは、誇らしいことではあった。結局委員長ではなく、生徒会を選ぶことになったが、そのときはクラスのみんなも応援してくれていた。

 しかし、やがて文化祭の決め事などでクラス内の分裂が決定的となり、また受験期が近づくと同じ高校を目指す同士が固まるようになり、空回りする私を気にかけてくれる奴はほとんどいなかった。私も別に望んではいなかった・・・が、担任の先生ぐらいには叱咤激励、アドバイスをもらいたかった。もし私から話をすれば聞いてはくれるだろうし、何かの言葉をかけてくれたかもしれない。それができなかった、やらなかったのは私の稚拙さだろう。しかし、子供のままの私は、受身である自分を正当化し、声をかけてくれないクラミ先生を次第に恨むようになっていた。
 このアンケートをとって私が生徒会に進んでハイよかったね、そういう気持ちだったんだろうか。

 私立受験の直前、帰りの連絡会で少し私語を漏らしていたことに注意されたのを逆恨みしたのか、私は生活記録に今までの成り行きを徹底的に書きなぐった。

 『あの時何で生徒会の選挙なんかに出てしまったんだろうか、普通にクラスの何かの委員で3年生を終わらせたかった、みんなは期待してくれたけれど僕はもうやる気はゼロだった、
 ・・・なんで先生は止めてくれなかったのか。神経を疑う。信じられない。時間を返してくれ。もう受験も何もかもたくさんだ。はやく卒業したい。中学なんかまっぴらだ。それだけだ(要約)』
 
 文章としては3ページぐらいだったが、イチャモン甚だしい、しかし確実に先生を責め立てる内容だった。

 いつもはハンコかせいぜい1行2行の赤ペンしか添えないクラミ先生が、私に負けじと4ページに渡って返事を書いてくれた。
 
 『貴方がそういう気持ちになって苦しんでいることを理解してあげなかったのは私の責任です。ただ、本当に生徒会に入らなければよかったと思っているんですか?私はむしろ、出会った頃の貴方の明るさがどこに行ってしまったのか、それが気がかりでなりません。貴方がそんな思いつめるような人間だったとは予想だにしませんでした・・・いずれにしても、私が貴方に対してもっと気配りをすべきでした(要約)』

 そのあとも、呼び出されることもなかったし、加えて何か言い訳されるわけでもなかった。
 それから私はクラミ先生と話すことは殆ど無くなった。先生も、気まずさを引きずったまま、しかし時折授業中に私を指名して答えさせていた。記憶にあるのは最後の道徳で取り扱った「被部落差別」の話、だった。

 公立高校受験直前の3月13日、卒業式を迎えた。
 悪夢のような生徒会の活動も、振られたあとのまどろっこしい空気ともサヨナラできる、そんな解放された気持ちでいっぱいだった。
 そして、クラミ先生とも別れる時が来た。
 私は、親からカメラを借りていて、クラスの連中と写真を撮っていたが、式の前に、スーツを着込み、私たちと同じく胸元に花をつけたクラミ先生を呼び、「センセイ、写真撮らせて」と言った。
 ファインダーの向こうには、ピースサインを突き出して、ニヤニヤしているクラミ先生がいた。

 ・・・ちなみにこのカメラ、途中でフィルムの蓋が開いてしまい、全部パーになってしまった。


 *

 
 中学を卒業して2年経過し、高校でウタゴエ部の練習に行く途中に、なぜか校庭の通路でクラミ先生と出くわした。高校の近所に住んでいて寄ってみたのだ、という。
 髪を伸ばした私と、着崩れした格好をしていたクラミ先生だったが、ホンのちょっと前にも出会ったかのように、普通に話した。
 明らかに違うのは、クラミ先生の両手に、生まれたばかりの赤ちゃんが抱かれていたことだ。
 
 クラミ先生は私たちが卒業後、ほどなくして退職していた。教師だった頃の空回りした張り切り姿ではなく、やわらかさをまとったお母ちゃんの表情を浮かべていた。


 同窓会の類も出ていないので、それからは、先生とも15,6年会っていない。
 あの時生まれた赤ちゃんも、もう高校生ぐらいになっているはずである。
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by lidth-s-jay | 2007-03-25 18:56 | 中学校専用 | Comments(0)